・プリキュア神学入門
『フレッシュプリキュア! プリキュアコレクション』を読んだ。
これは一時期、一万円以上の高値で取引されていた曰く付きの代物だ。放送十年後になって値段が落ち着いてきたので、いまさらながら読むことにした。
こいつはすげえ作品で、上北ふたご先生解釈の異約・フレプリだった。マンガの形をした精神療法だった。自分は幸せになる資格が無いと思っているフレンズはいますぐに読め。面白いとか面白くないというレベルの話では無い。金で買える救いがここにある。
フレッシュプリキュアのストーリーをざっくりと説明すると、ブラック企業しか知らない少女の物語だ。せつなはブラック企業の社長に忠誠を誓って、過労死することこそが美徳だと洗脳されている。過労死しかけたあとに、ついうっかりライバルのホワイト企業に引き抜かれてしまうのだが、前職の癖が抜けなくて勝手にタイムカードを書き換えてサービス残業したりする。だいたいこんな感じだ。
なにがやべえ(※語彙力の低下)のかと言うと、せつなことキュアパッションの自己肯定感の低さだ。自分には存在価値が無いと言ったり、たのしそうにしている連中を見るのが辛かったり、幸せになる資格が無いと感じていて自傷っぽい行為に手を染める。周囲の期待に応えられなければ見捨てられるかも知れないと怯える。
なかよしの女児向けコミカライズだと思って油断しがちだが、ここまで自己肯定感の低いキャラは一般向け作品でもほとんどお目にかかれない。
そのせつなの苦しみを真正面から受け止めるのが、上北ふたご先生の優しさだ。ページ数の制限はあるものの、内容が非常に濃い。濃すぎるので頭の中でアニメ化して再生せざるを得ない。
フレッシュプリキュアを一通り見終えると、新約聖書をフレッシュプリキュアの二次創作として読めるようになるなどの霊的成長を得られる。冗談抜きでこの漫画は聖書と同じ棚に並べてある。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」 という新約聖書の一節が、せつなのラブへの百合ラブレターとして読めるようになる。
頭がおかしくなったわけではない。フレッシュプリキュアの登場人物名は新約聖書コリント人への第一の手紙13章が元ネタだ。キュアパッションは、フルーツではなくて受難(パッション)の意味であり、変身シーンは洗礼をモチーフにしている。
カール・バルトの『福音主義神学入門』を読んでいてもさっぱり意味がわからなかったのだが、「神の国の価値観を、人間ごときが簡単に理解できるわけじゃねえだろ、人間が簡単に理解できるような教義があるのだとしたらそんなものは人間が勝手にわかりやすくしただけの偽物だ」ということについて思いを巡らせていた。
もし我々に救済が訪れるのだとすれば、それは理解不能な形態を取る。慣れ親しんだ価値観で理解しようとすればするほど、納得がいかない物になる。それを前に当惑し、受け取ることを拒絶する類いのものだ。
管理国家ラビリンスで生きてきたせつなにとって、ラブとその家族が与えてくれるものは理解不能なものだった。温かい食事と優しさ、管理国家ラビリンスとは全く異なる価値観であるが故に、彼女は当惑する。どうやって与えられたものを受け止めれば良いのかわからない。そして受け取ったあともなお、それが自分には似つかわしくないもののように思える。
せつなは楽しんだり、幸せになることに罪悪感を覚えている。苦しまなければダメだ。苦しんだ代償として幸せが得られると信じている。間違った価値観の中にいるから、幸福になろうとすればするほど、自分を苦しめるような方法に縋る。
そしてそれが自分たちの現し身であると気づく。
フレッシュプリキュアは、幸福を願いながらも間違った方法で幸せを追い求める女の子の物語だ。
自らを苦しめるような価値観に囚われていて、自傷的な思考や行動こそが正しいと思い込んでいる。それ以外の価値観を知らないから、自分を傷つけるような行動を取って、幸せになろうとすることで自分を更に苦しめる。
我々がフレッシュプリキュアから受け取る祝福は、自分の幸せを願うことだ。おまえには幸せになる資格がある。お前は幸せになっていい。
神は信じなくてもいい。「いっしょに幸せゲットだよ!」と告げるラブの言葉を信じろ。自分は幸せになる資格など無いという呪いを手放して、ラブがせつなに与える惜しみない愛を信じろ。それだけが人間を絶望と失意から掬い上げる。
フレッシュプリキュアのラブ×せつなは最強百合カップリング扱いされることが多いのだが、あれは厳密には百合ではない。「神から人間に向けて注がれる、太陽のような無限の愛」と表現した方がよい。おれたちが見たのは女の子同士のいちゃいちゃとドキドキの心めく体験では無い。神というととたんに宗教になるのだが、神という概念もプリキュアも、同じ源泉から生み出されたものに過ぎない。
スマイルプリキュアのオープニングテーマでは「消えないきらめき、みんなが持ってる」「満ちてゆくまぶしさを 分け合いたい」と歌われる。ドイツの神秘主義者マイスター・エックハルトは『誰もが、光の輝きを自分自身の内側に持っている。だからあなたはあちこちを歩き回って、出会う人全員が輝くよう点火してください』という言葉を残している。
これをただの偶然として片付けるわけにはいかない。宗教は山にたとえられると言われる。どのようなルートを選んでも、最終的には同じ頂上へとたどり着く。プリキュアも人類の普遍的な聖性にたどり着くためのひとつの登山口であり、それを追求するのがプリキュア神学の立場だ。
フレッシュプリキュアは体温を感じさせる演出が多い。手が触れる。体温が伝わっている。殴り合う。触れるというのはパンチみたいなものだ。握りしめた拳では無くて、開かれた手で触れる。
優しく包み込み、すべてを肯定し、すべてを許し、すべての幸福を願う。それがプリキュアの力の源であるからだ。