私に天使が舞い降りた!感想文


私に天使が舞い降りた!を観ていて、「人間は!人間の中でしか生きられない!」と叫んでいた。
狼少女は長い間人間の社会と関わっていなかったから、人間としての心や振る舞い、言葉を学ぶ機会が無かった。みゃー姉は他者との関わりを避けて生きてきたせいで、年相応の人間関係経験値が欠落している。精神年齢がほぼ小学生で、心の成長が止まっていた。それが花ちゃんたちと出逢うことによってこれまで止まっていたみゃー姉の時間が動き始めたように見えて、思わず泣いてしまった。アニメ感想文を読み返しているとしょっちゅう泣いているがこれは事実だ。涙腺が弱いんだ。
みゃー姉は危ない。自分一人でも充足できる空間の中に延々と引きこもれる。閉じた精神を持っている。その硬い外殻をこじ開けるのが花ちゃんであり、小学生への恋愛感情であり、おねロリ百合だ。

みゃー姉と松本は両者とも対人関係の距離感がおかしい。片方は距離を離し、もう片方はお構いなく相手のパーソナルスペースに踏み込んでいく。このアンバランスさが奇跡的なバランスを取っている。みゃー姉と松本。 自分に百合漫画が描けたら、次のコミケで松本さんがみゃー姉を好きになるまでの二次創作をでっちあげるぐらいには松本さんが好きだった。松本は完璧超人でこれまであらゆる人間関係を取り繕って生きてきたのだが、自分に正直に、不器用に生きるみゃー姉に惹かれていくのだ。みゃー姉の空気の読め無さが、逆に独立独歩で生きているように見える。そーいう勘違いから生まれる百合。なんかこう、いいよね。
(※これは仮説なのだが、松本さんは真人間なのだが、みゃー姉の対人経験値が少なすぎてどう対処していいのかわからないために、変人に見えてしまう説を提唱する。発達障害だと他人がどのような心の論理で動いているのか分からないので、どうしても突拍子のないものに映ってしまう。)

私に天使が舞い降りた!で視聴者が見せられているものはみゃー姉の心象風景だ。この作品の特徴はみゃー姉の自己評価が著しく低いことだが、外側から観たみゃー姉の姿は彼女が自虐するほど悪いものではない。
これまで心を閉ざしていた小学生の女の子の行動をアクティブにしたり、引っ越してきたばかりの女の子に新しい友達を作ったり、むしろいい人に属するのだけれども、みゃー姉の自己評価はおそろしく低い。
ひなたが周囲に吹聴するように素敵なお姉さんなのだが、みゃー姉にはそれが嘘にしか思えない。これが自己評価の低い人間が見ている世界だ。自分が駄目でどうしようもない人間の屑だという、居心地のいい泥のような自己認識の中で微睡み続ける。人の善意やいい評価をまっすぐに受け止められない。それが間違いだと思ってしまう。 自己評価と周囲の評価の食い違いがギャグとして描かれるが、実際にみゃー姉はひなたが言うとおりの素敵なお姉ちゃんなのかも知れない。優しくて一生懸命でお菓子を作るのが上手でモデルみたいに綺麗だというひなたの評価をみゃー姉は間違いだと一蹴するけれども、どの自己評価が自分にとって適切なのかを知るのは不可能だ。自分が何者なのかを自分の意志では決められない。
低い自己評価と、他者の好意を素直に受け入れられない態度。これがみゃー姉が閉じ込められている地獄だ。だが天使が舞い降りるのはいつだって地獄だ。地蔵菩薩が人々の苦しみを和らげるように地獄に姿を現すのと同じように、みゃー姉の歪んだ自己認識の世界に花ちゃんが舞い降りる。
「これからも私は花ちゃんにお菓子を作り続けるから」
私に天使が舞い降りた!の第十話で、みゃー姉は花ちゃんに言った。
これまで人との関わりを避けてきたみゃー姉が、初めて継続的な人間関係を築いていきたいと願った。恋が、恋だけが人を変える。ただ花ちゃんに対する淡い恋心が、みゃー姉の呪いを和らげる祝福になる。そして私に天使が舞い降りた!がただのおねロリ百合日常萌えアニメではなくて、みゃー姉の魂が再生するまでの歴程(ピリグラム)になる。
みゃー姉は素敵な女の子だよ。自分を信じて!みゃー姉は可愛いよ!みゃー姉!!!