比較的理性、時事問題への言及隔離室
※ここに書かれてある文章は未分類です。`
・言葉の肌触りについて
「自分はこう思う。他人に押しつけるつもりはない。多少なりとも共感するところがあるのなら、使えそうな文章やフレーズは流用していい。反対するのなら放置して欲しい」というのが基本的なスタンスなのだけど、SNSという媒体で言葉を発した瞬間から、「誰かに語りかけるための社会的な言葉」になってしまう。
雑誌や記事といった媒体で主張のある文章を読んでも、自分に直接語りかけられているとは思わない。でも同じ主張がスマートフォンのアプリやSNSという媒体に載ると、「自分に向けられて語られた言葉」として機能し始める。
新聞や雑誌の記事なら「こんなことを考えてるひとがいるのねー。ふーん」で済ませられるものが、「いや、自分はそう思わない」と返信したくなる。どうしても政治的な主張は言葉のエッジが鋭くなって、そのまま日常会話用の言葉にしても馴染まない。
文章媒体で「○○には反対するべき」といった言説を、日常の声や言葉に変換できない。インターネットやSNSで流通している言葉は、活字媒体の延長なのか、それとも日常で使われている言葉を文字にしたものなのか区別ができない。
日常の会話で使う言葉も、活字媒体の言葉も、インターネットのあまり素性のよろしくない文化圏の言葉も一緒くたに扱われている。言葉が媒体から切り離されて、肌触りや文脈を喪失して、のっぺりとした肌触りの言葉に変質してしまった感覚がある。
・言葉を媒体に最適化する努力について。
今は表現媒体が多様化して、表現をある一つのフォーマットに最適化できなくなっている。文章だけでも、紙で読む人も、スマホやタブレットで読む人、KindleなどのE-Ink端末で読む人、パソコンで読む人がいて、それぞれが違った環境でコンテンツに接する。
書かれている内容が同じだから情報には違いがない。そう思ってしまうのだが、言葉の肌触りはまったく異なっている。
街頭デモで叫ばれている言葉は、部屋の中で読むには騒がしすぎる。活字で読まれることを前提にした文章はスクリーンだと読みにくくなる。スマホで読まれることに最適化されたウェブ漫画は、単行本として印刷されるとコマが大きいように感じられる。映画館での視聴に最適化された動画を、配信サイト経由で観る。
表現の内容に対して媒体が最適化されていない。どの媒体と環境でコンテンツに接するのかは、何か書かれているのかと同じくらい重要なことだと思う。それをおろそかにしているので、駅前で語られる大声も、真夜中に使う囁き声も一緒くたに扱われている。
いま私たちが接している言葉やコンテンツは、適切な環境で再生されたものではない。意図しない環境で再生されて、消費されている。意味はかろうじて伝わるかも知れないが、想定していない環境で消費される。
言葉は適切な媒体と場所、時間帯、読まれる人……といった環境を整えないと、本来の効力を発揮できない。駅前には駅前の、部屋には部屋の、昼間には昼間の、深夜には深夜の、紙には紙の、スクリーンにはスクリーンの、それぞれにとっての最適な表現形式がある。
あらゆるコンテンツがデジタル化の恩恵を受けると同時に、媒体に最適化された表現が失われていく。昔は「デジタル音源にはCDの暖かみが無い」という話を、老人の戯言だと思って聞いてたけれども、CDを買ったり、ネットの無い時代だとライナーノーツだけが唯一の情報源だったりといった、媒体によってもたらされる経験(エクスペリエンス)が失われるのは、古いメディアに慣れ親しんでいた身としては寂しさを感じる。
それと同時に、スマホを通して音楽を聴いたりするような、新しい経験のかたちが生まれていたり、デジタルメディアに最適化された表現も作り出される。
こういう風にして一歩ずつ老人に近づいていくのは承知の上なのだが、コンテンツと媒体を調和させるのは重要だよなー、ということをとりとめもなく考えていた。環境を整えて、ゾーニングして、読者や視聴者層を制限して、コンテンツを媒体に最適化して、表現のスペックを最大にできる。
・言葉にしたとたんに消えていくもの。
いつも言葉にしたとたんに、脇道にそれていく。伝えたかったことが変質して、言葉にうまく収まりきらない。自分の感じていることを、言葉で表現できる形にまで最適化して、圧縮して、不必要なものをそぎ落とす。そうやってわかりやすい言葉になったときに、一番最初に感じてきた、ごちゃごちゃした感覚とはほど遠いものになってしまう。
言葉を使う度に、言葉にできたことの他に、言葉にならなかったもの、言葉に収まりきらずに削ったものが数多く生まれる。文章を増やして、言葉の精度を高めようとする度に、言葉にできないものがさらに増えていくような感覚になる。不完全な言葉を、さも完全であるかのように偽装表示して、それが自分の心であるかのように扱う。心と言葉は決してイコールにはならない。
言葉という不完全な道具を使って、他者を理解したような気になって、反対に自分を理解して欲しいと思う。言葉という不完全な道具を使っている限り、不完全なことしか伝わらないし、表現ができない。かといって沈黙するわけにも行かないし、誤解を誘発するような言葉を使わざるを得ない。
言葉になるまえのちりちりした感情の波のようなものがあって、適切な言葉をあてがおうとする度に、それが死んでいくような気がする。動物の肉を食べやすいサイズに切る。それと同じように、他人が理解しやすいように自分の心をわかりやすい言葉に置き換える。そのことで命が失われてしまうみたいに、ちりちりした感情の波のようなものが消えてしまう。
もしかしたら、情報伝達以上の役割を言葉に求めている時点で間違っているのかも知れない。自分の言っていることを理解して欲しい、説得されて欲しい、考えを改めて欲しい、というように、言葉に足して過度な負担をかける。
伝わる以上のことを、言葉に要求しない。相手に文字列が届いたらその時点で言葉は役割を終えている。それがどのように解釈(デコード)されるかまでは、自分では制御できない。自分が望んだ形で再生されるのではなくて、どこかで誤解が生まれる。いい誤解か悪い誤解かはわからないけども、自分が伝えたいと思った通りには伝わらない。
でもそこで、「本当はこういうことを言いたかったんです」といっても、誤解の上にさらに誤解を重ねていくだけだ。
印象派の絵画で使われている技法に色彩分割というものある。近くで見ると荒いタッチの筆跡なのだけれども、遠くから見ると色が混じっているように見えるという技法だ。絵の具をそのまま混ぜ合わせると濁った色彩になる。それを避けるために、遠目から見たときに色が混じっているように目に誤解させる。キーワードは誤解だ。
何かを理解したと思ったときには、自分にとって都合のいい方法で誤解をしているだけなのかも知れない。反対に悪い方に誤解されてしまうこともある。それは自分のコントロールの埒外にある。誤解される文章しか書けない。でも「あなたの言いたいことや感じていることは、手に取るようにわかるよ」と思われるのも嫌だ。
・言葉のフェチズムについて。
日本語は縦書きにしたときにもっともフォルムが美しくなる。それに縦書き用のフォントを合わせると美しさが増す。引き締まった字体と漢字の左右対称に近いデザイン。漢字は上から下に流れるように書かれる文字として設計されていて、レイアウトを整えると言葉の妙味が生まれる。
アルファベットはシンプルで幾何的な文字のデザインと、単語が横に伸びていくときに生まれる水平のライン、何千年と積み重なった文字の歴史。それらが煉瓦の建物のように確固とした言葉の世界を形作っている。
文字や言葉を構成する要素が完全に調和したときに、言いようのないフェチズムを感じてしまう。
一方で日常で使われる日本語が問題だ。
横書きも縦書きも、それぞれの用途に特化したフォントも、ひらがなもカタカナも漢字もアルファベットも混在して、要素がぐちゃぐちゃになっている。そのカオスなデザインからは、あまりフェチズムが感じられない。(極東アジア的な乱雑さが面白いと感じるが)
電子書籍リーダーのKoboはウェブの記事を転送して読めるのだが、日本語を表示したときの作り込みが甘い。解像度が十分ではないと漢字の細部がつぶれてしまう。日本語のフェチズムを理解していない人間が作っているとしか思えない。とりありず日本語を表示できればいいだろ?ぐらいの雑な実装だ。Kindleに比べると辞書が弱い。英文を読む際には問題は無いが、ローカライズのクオリティが低い。
海外製のワードプロセッサを日本語化しても、とりありず日本語の入力ができるようになったというレベルでしかない。間に合わせのローカライズで満足して、日本語を美しく見せるためにはどうするのがいいのかという視点がおざなりになっている。日本語の編集はできるが見栄えを追求する段階には至っていない。日本語が表示できるのと、デザインが洗練されているのは全く別の話だ。
文章の体裁を整えるという点では、やはり日本語ワープロソフトは日本企業製がいい。日本人による日本人の感性で作られた日本語環境というと言語右翼みたいだがそれも仕方が無い。
海外製のワードプロセッサは英文用に最適化されている。アルファベットの横書き文化の土台に、そのまま全く異なった言語を載せるのは齟齬をきたして当然だ
もし漢字が縦書きではなくて横書き用に作られたものだったら、今慣れ親しんでいる漢字とは全く異なったデザインになる。水平に線を引いたときに、見栄えのいい上下対称に近いデザインになる。釜とか完とか、水平のラインが強い漢字が多くなるだろう。
ひらがなとカタカナはなんで同じ発音なのに文字のバリエーションが二つもあるのか意味がわからないのだが、フォルムは嫌いではない。ひらがなの丸っこいゆるゆるした感じは好きだ。ゆるゆりとユルユリと緩百合、輕鬆百合(※中国語)ではまったく異なった印象を受ける。
このひらがなのまるっこくてかわいい感じがたまらない。
こうやって言葉のフォルムに魂を奪われつつある。
・死んでいく言葉
言葉の使い方が窮屈になってきたように感じられる。言葉が凝り固まって、可動範囲が狭くなって、喋りたいことを口にできなくなって、聞きたいことが耳に入ってこない。
ここ数年の間に、日本語の多様性が失われてきていると思うことが多くなった。言葉の色彩が均一になって、語られている言葉が似通ったものになる。これまでにどこかで聞いたような話を、繰り返し聞かされている。
言葉が溢れると、弱い言葉から先に死んでいく。人工の光がかすかな星明りをかき消してしまうように、けたたましく繰り返される定型的な言葉がささやきのような言葉を押しつぶしていく。外来種の植物が在来種を根絶やしにしていくのと同じように、コピーアンドペーストで増殖する類いの言葉が繁殖力の低い言葉を絶滅に追いやっていく。そのことで言葉の生態系が単調になっている。
自由に物事を語るよりかは、ガードに比重を置いたような言葉を使わざるを得ない状況になった。そつなく言葉をまとめて、突っ込まれないようにして、誰にとっても正しくて、誰にとっても意味がないような言葉を使うことが処世術になった。その環境に適応することで、自分が喋る言葉がやせ細っていった。
選挙期間中などはネット上の日本語に触れるだけで神経をすり減らされるので、日本語自体をブラウザに表示させないユーザースクリプトを作った。ひらがなとカタカナを含む文章を消すというシンプルなものだ。Vivaidiというブラウザの拡張機能に突っ込めば使える。ChromeやFirefoxの場合はユーザースクリプトに設定する。
WebAborn(ウェブあぼ~ん) ― NGワードをブラウザに表示させないというサイトで生成した。
この時代の言葉に慣れ親しむほどに、自分の言葉が汚染されるような気持ちになるので、ネットの日本語からは可能な限り距離を置いていた。
私は脆い言葉を優先的に語るべきなのかもしれない。そう思うようになった。
強い日差しの元では簡単に枯れてしまう言葉、無理に増幅すると音がひび割れてしまうような言葉、繁殖力が相対的に弱い言葉、けたたましい言葉の前では聞き取れなくなってしまう言葉、街灯の明かりで見えなくなるような言葉、午前三時の誰しもが寝静まった時間に、耳を澄ませることでようやく聞き取れるようなか細い音のような言葉。定型句に置き換えられない言葉、ぴったりした表現が見つからなくて言いよどんでしまう言葉。
そういう種類の言葉を優先的に語るべきだと思った。少なくとも私が知っているインターネットでは、数多くの脆い言葉が生育していた。かき消されてしまった言葉は誰の耳にも入らないので確かめようがない。言葉の死体が残るわけでもない。はじめから存在しなかったかのように、空気に溶けてしまう。
言葉を粗雑に扱っていると、反対に言葉が自分たちを粗雑に扱うようになる。心のどこかで私はそう思っている。私たちは手持ちの言葉の範囲でしか思考できないし、他者に物事を伝えられない。
・人間と機械の言葉が区別できなくなっていくことについて。
Googleでメールを返信しようとしたら、メールの内容を分析して適切と思われる候補をサジェストしてくれるようになっていた。スマートリプライと呼ばれる新機能なのだが、実際に使ってみると「もう自分の代わりに勝手に返信して、勝手に人間関係を構築して、勝手に人間関係を維持してくれ」と思ってしまった。
自動化テクノロジーを突き詰めていくと、もう自分が言葉を発する必要はない。 チャットで話していた相手が人工知能だったとか、選挙中に大量発生する得体の知れないアカウントが水増しされたボットだったなど、人間と機械の言葉が区別できなくなっていくことに気持ち悪さを感じていた。
それは人工知能や技術革新を否定するものではない。私たちが日々使っている言葉が、機械やなりすましと区別ができないような種類の言葉であるということに対して、危惧を覚えている。
私たちが使っている言葉が肌触りを欠いて、のっぺらぼうになり、個体識別が難しくなる。そのような言葉を使えば使うほど、人間ではない言葉が入り込みやすくなる。
たとえばイギリスやアメリカの選挙に海外の情報機関が大量の偽アカウントを運用して、影響を及ぼしているという話をよく聞くのだけれども、それは私たちが個体識別できない言葉を使っているから可能なことだ。
言葉を使うときには特有の訛り、発音、という雑多な情報が入り込むのだけれども、インターネットでは言葉の固有性が簡単に失われてしまう。
純粋な文字情報だけに頼りすぎているから、文法がよほどおかしくない限りは簡単になりすませる。ディスプレイに映し出されている言葉が、生身の人間が発した言葉か、自動生成されたものなのか区別ができなくなる。
私がある程度長い文章を好むのは、その言葉の配列にその人特有の指紋が現れるからだ。段落の組み立て方、語彙、文章のリズム、文章の長さや改行のスタイルといったものが、その人に特有の言葉の指紋になる。
でもマイクロブログは脈絡やコンテクストを無視して発言できるので、途中でハッキングされて中身が入れ替わっていてもすぐには気がつけない。ネットで使われる言葉が肌触りや体温を欠いていること、そしてそれを使ってしか情報を伝達できないことに対して、腹のあたりがもぞもぞした感覚を抱く。
私たちはどういう性質の言葉を使っているのだろう。それは途中で入れ替わっても誰にも気づかれないような、顔のない言葉なのだろうか。もしそうだとしたら、書き手の顔が見える言葉を使うためにはどうしたらいいのだろう。
数あるブログの中から当ブログを選んでいただき、誠にありがとうございます!
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・カロリーと心。
人間の遺伝子は何万年も前から変わっていないけれども、摂取するカロリーの量は時代によって大きく変わってくる。「文明の発展が摂取カロリーを増やし、エネルギーを多く利用できるようになった脳が、これまでとは違うことを考えられるようになる」という視点が興味深い。
二足歩行で歩けるようになった結果、手が自由になった。自由な手で道具を作り、獣を効率的に狩れるようになる。脂質や動物性蛋白質の安定的な供給によって脳の使えるエネルギーが増えて、人類は文明を築き上げられるようになった。そして農耕文明により大量の炭水化物が生み出せるようになると、これまでに経験したことがない不自然なエネルギーが人間の身体に流れ込んでくるようになった。狩猟採集時代は炭水化物と脂質、タンパク質のバランスがよかったが、それが急激に炭水化物に偏るようになる。当初の農耕文明は栄養失調が多く、大豆などの豆類を栽培できるようになってようやく栄養水準が改善したとも言われる。
心の形は一定ではなくて、文明や時代によって異なっているという仮説がある。
ジュリアン・ジェインズの二分心(にぶんしん)だったり、漢字にはもともと心を表す文字がなかったが、ある時期を境に急に心に関する文字が増えたという話。仏陀やキリストなどの世界的な宗教がほとんど同時期に発生したのは、そのときの人類は突如として生まれてしまった新しい心にどう対処したらいいのか分からなかったからではないのか? ……という話など、確かめようがない仮説がほとんどだ。
僕たちは心をどの時代にも変わらない普遍的なものだと思っているけれども、それは利用できるエネルギー、技術、文字、環境などの制限の中で、かろうじていまの心の形が作られているだけに過ぎないのかもしれない。
『しかしこれらの字は、やがてその呪的な力が、その文飾にあるのでなく、内的な特性、精神的な力にもとづくものとされるようになった。古代の呪的な行為を示す字は、このようにして人間の内面的な特性を意味する語となる。徳の字に心が加えられるのには、帝から天への転換、人間の内面性への自覚を必要としたのである。』 『それはこのような感情の分化が、時代とともに進んで、文字がその必要に応じて、新たに作られてきたからである。卜文には心に従う字がほとんどみえず、金文に至ってもなお20数字を数えるにすぎない。人が神とともにあり、神とともに生きていた時代には、心性の問題はまだ起こりえなかったのであった。』 白川静『漢字―生い立ちとその背景』
・レッテルを貼られることは避けられない。
・私の政党座標は 41.7% 左派, 86.1% 自由主義者です。
人からレッテルが貼られることが避けられないのであれば、脳みそがお花畑のクソ左翼だと思われても別にいいかなという気持ちになっていた。保守思想を隠れ蓑にして人種差別や人権侵害を肯定するような連中と一緒に見られるぐらいなら、憲法9条の狂信者というレッテルを貼られた方がマシなのかも知れない。
従軍慰安婦を否定したり、性被害を告発した女性に対して「金儲けのために騒いでいるだけだ」と難癖を付けたり、ヘイトスピーチをするような人々と一緒にされるぐらいなら、脳みそがお花畑野郎だと思われたい。
他者にレッテルを貼ることしかできない人に対して、「それは違うよ」と指摘するのは無益だ。目の前にいる人間に対して、一面的なイメージを押し付けるだけで理解できたような気になって、それ以上は考えようともしない。そういうタイプの人間からは脳みそお花畑のクソ左翼だと思われても別にいいやー、という気持ちだ。
・イメージの国
イメージの国で生きている気がする。
政策を読んで比較したり、CPUを買うときにベンチマーク記事を参考にしたりするのはごく少数派で、だいたいの人間はなんとなくのイメージだけでこの世界を判断しているような気がする。特に興味の無い事柄に対しては、ふんわりとしたイメージでしか判断できない。イメージの国では中国人のマナーはなんとなく悪いイメージで、野党はいつも反対ばかりしている。首相はなんとなく仕事をしているっぽいのでなんとなく支持をする。
なんとなくの印象だけで構築された世界観を「イメージの世界」と呼んでいる。説明書を読まない世界でもいいし、印象だけで生きている国でもいい。すべてがなんとなくの印象で動いているのではないのか?と思っていて、そうでもないと小池百合子率いる希望の党が躍進した理由が説明できない。
知識人や頭のいい人たちは、「表面的な印象操作に操られないようにすれば、彼らの言っていることは間違いだと理解できるはずだ」と言っているけれども、だいたいは印象以上の情報を必要としていない。改憲だって「なんとなく平和がいい」あるいは「なんとなくGHQが悪いっぽいから変えた方がいい」ぐらいの認識が過半数で、自民党改憲草案の問題点を指摘できる方が少数派だ。
でも政治おたく化してしまうと、そのあたりの温度差がわからなくなってしまう。今の日本で政治の話をするのは、政治おたく的な振る舞いに感じる。これは個人的な感覚なのだが、「民主主義国家の主権者として」ではなくて「おたく趣味の一環として」政治トピックを消費している。
政治的なものとおたく的なものは、悪い意味で相性がいいと思っている。思想が開かれたものではなくて、閉じたものになりつつある。万人が気軽に参加できるものではなくて、ある程度の前提知識が求められる末期の格ゲーみたいになる。
政治は参加するものだけれども、参加するためにコンボを覚えたり、必死になって練習しなければならなかったり、知識が無いとスタートラインにも立てないものになっている。下手に振る舞うと古参ユーザーから「そんなことも知らないの?」と嘲笑される。
ガチ勢だけになって、カジュアルに楽しめない。ガチ勢に疲れた初心者がYahoo!ニュースコメント欄やまとめサイトにがっつり取り込まれて、リベラル界隈はゆるやかに衰退していく。全部、格闘ゲーム末期に見た光景だ。ある意味、政治クラスタも格闘ゲームみたいなものだしね……。
・個人の記憶、共通の記憶。
東日本大震災の時に感じた自分の経験や感覚、エピソードが時間とともに風化していく。それと平行して、自分の記憶が報道の映像や写真に置き換えられる。津波や原発事故の映像や廃墟といった、継ぎ接ぎのイメージが自分たちにとっての「東日本大震災の共通記憶」になる。それは偽物ではないけれども、私が知っている東日本大震災の記憶とは違う。
当時は「そろそろ冷蔵庫の中身も無くなってきたし、今日の夕方に買い物に行くかー」と思っていた矢先の出来事だったので、速攻でスーパーの食料品が無くなったことを鮮明に覚えている。シリアルフードをペプシでふやかして食べていて、スーパーにマルちゃんの五食入りインスタントそばが並んだときには、ようやく人間らしい食べ物にありつけると思った。
ニコニコ動画で福島原発に自衛隊のヘリコプターが消火活動をしているのを観ていて、これからどうなるんだよ……東京に住めなくなるのではないのか?と不安になっていたのだが、そういった個人的な記憶は薄れていく。
太平洋戦争も個人的なエピソードが消えて、報道映像をつなぎ合わせて作られた共通の記憶になっていく。個人の体験だけが失われて、客観的で、歴史の教科書みたいな乾いた記録になる。その記録だけを知って、過去の出来事を理解したと思い込むのは危うい。
祖母が戦争の話をするとだいたい食べ物の話になるのだけど、自分も東日本大震災を語るときには食べ物のエピソードの方が比重が大きい。危機的な出来事が起きたときにはまず食べ物の話になる。
・発電/国防 パワーレポート。
次世代原子力発電と聞き、脳内リベラル左翼マインドが「原発絶対反対! 即廃炉!」と心の中でデモを行うのだが、脳内ガジェットオタクが「ベンチマークを見ないといいものかどうかわからん」という判断を下す。
新型の太陽光パネルや小型原子炉などを比較するときのスペック表やベンチマークがない。CPUやグラフィックボードを買うときには、自作PC雑誌やサイトを眺めてスペックと価格、コストパフォーマンス、ユーザーレビューなどを調べ、各種ベンチマークやゲームでどのくらいのFPSが出るかを確認してから、購入の是非を見当する。
数万円の機械でもそのぐらいの下調べはするのに、何億・何兆の国家予算をつぎ込むようなエネルギー政策や国防については、ノリと雰囲気だけで賛成したり反対する。
「新型太陽光パネルは、前世代と比べて発電効率が○○パーセントアップ!」とか、発電ベンチマーク、実際に導入した国家によるレビュー記事などの情報がないので、冷静な判断ができるのか自信がない。
国防費やエネルギー政策はどうしても思想や理念が先行してしまいがちなのだが、なにかしらの機械を買う以上、ガジェットオタク・マインド的に譲れないものがある。
これはなにも発電だけの話ではなくて、あらゆる政治的トピックに対して自作PCのスペック調査以上の労力を割いていないことに気がつく。
国防政策も予算別自作PCプランのように、必要最小限の格安コース、バランスのいいミドルレンジ、金に糸目をつけないハイエンドモデルなどの選択肢を用意して、国民投票で決めて欲しい。DOS/V パワーレポートっぽい内容の兵器雑誌を国民の税金を投じて作り、兵器の性能と値段を載せて日本国民の国防への意識を高める。
今月号の特集はイージスシステム徹底ベンチマーク! ミサイル打ち込んでみた! 自爆ドローンへの対処法は? といった内容だ。
政治的に正しいのかどうかは知らない。しかし無知なままで発電設備や戦闘機を購入するのは、家電量販店でCeleronとHDDの載ったWindows10ノートパソコンを13万円で買わせられた親父と何も変わりがないのではないか。
ただDOS/V パワーレポートは一時期、完全なIntelの回し者になっていた時期があった。「最新CPU!性能微増!ソケット一新! Intelの殿様商売に従え! なにもかもを買い換えろ!」と言わんばかりの紙面構成だったし、国民向け兵器雑誌も米国兵器産業のプロパガンダになる可能性も否定できない。
・反原発とエコロジー。
日本社会にとって原発事故が環境問題を考えるきっかけになるのではなくて、反核兵器と反戦の文脈に取り込まれてしまったように思える。
廃炉をどうするのか、地球温暖化を遅らせるためにどのようなエネルギー政策をとるべきなのか、どうしたら私たちのライフスタイルを低消費・低エネルギーなものへとシフトしていくのか、経済発展を犠牲にしてでも持続的な開発を目指すべきなのか、……といった議論を深めるためのチャンスだったが、いつの間にか「諸悪の根源は原子力発電だ」とか「日本の経済発展のためには原子力が必要だ」といった単純な議論に矮小化されてしまった。
本来なら、地球温暖化、気候変動などの環境問題の文脈でエネルギー政策や「原子力発電の是非」が語られるのが筋だ。でも日本で原子力発電の話題に触れると、否応なく反核爆弾・反戦、憲法九条的な枠組みの影響を受けてしまう。チェルノブイリとスリーマイルの延長線上に福島があるのではなくて、ヒロシマとナガサキ、フクシマを一直線に結びつけてしまう。
被爆国だから核兵器と原子力発電所事故を分けて考えることが困難で、エネルギー政策の話がいつの間にか、反原子力、反核兵器の話にシームレスにつながる。その二つを明確に分けずに、核兵器廃絶の主張を補強するための部品として、原発事故や環境問題を都合良く援用する。たとえば「この世界から原子力技術が無くなるべきだ」という言説を補強するために、「ヨーロッパは原発ではなくて再生可能エネルギーにシフトしている」という話を持ち出すような態度だ。
勘違いして欲しくはないのだが、核廃絶運動を否定しているのではない。この地球上に核弾頭が何千発も存在しているのは狂気だと思うし、核兵器と原発を結びつけるのは仕方が無い。それを踏まえたうえで、「核廃絶運動と環境問題をごちゃまぜにして語ることに違和感がある」という話だ。
核廃絶の一部として原発に言及するのか、エネルギー政策と環境問題の一要素として原発を語っているのかということに、もう少し意識的でありたい。
・馬鹿に対して馬鹿正直に応じるのは馬鹿らしい。
ここ最近はコミュニケーションに対して幻滅しているので、文章を書きたいという気力が失われている。
現実解像度の低い人間(※婉曲表現)に対しては何も言っても無駄だということがわかったので、人間に対する信頼を少しずつ失いつつある。どれだけ論理的に整合性のあることを言っても聞く耳を持たない。まともに喋ろうとすると論点をずらされる。はぐらかされる。詭弁で話を引っかき回されて消耗する。どこの誰だかわからない人間が、ゼロ距離射程から不愉快な言葉を投げつけてくる。その場しのぎの言葉を繰り返して、いたずらに時間を浪費する。
こういった種類の言葉が、ネットの掃き溜めでやりとりされるだけなら問題は無いのだが、パブリックな場所まであふれ出てきたことに失望を隠しきれない。
まっとうな言葉や言説は軽んじられる。論理的な整合性があり、事実に即している。たったそれだけの条件を満たしているだけの言葉も少なくなってしまった。
人間は一見すると理解できない文章や言葉に対しても、「わからないのは自分の読解力が足りていないせいかも知れない。もう少し自分が我慢すれば、相手の言っていることが理解できるだろう」と考える。その性質を逆手に取られて、意味がありそうで実際には何も無い言葉で煙に巻かれると、手の打ちようが無い。
対話そのものを無力化するようなコミュニケーションが日常化することで、言葉に対する信頼を破壊してしまった。
ここで「馬鹿には話が通じないだから、まじめに取り合うだけ無駄だよ。適当にあしらえば良いんだよ。そっちのほうが精神衛生上、好ましいよ」と考えるのがもっともな反応だし、個人的はそうしたい。無礼な奴はブロック。視界にも入れない。自分にとって好ましいフィルターバブルを作り上げて、快適な環境に閉じこもる。そうするのが定石だと思うのだが、それもディスコミュニケーションに荷担しているように感じる。でも不愉快な言説にいちいち対応するのは不可能だ。
「どうせあいつらはいつも同じことしか言わないから、耳を傾けるだけ時間の無駄だよ」「話し合ってもこじれるだけで何にもならないよ。そんなことをするよりも、限られたメンバーと閉じたコミュニティに引きこもっていた方が快適だよ」「相互理解なんて幻想だから、そんなきれい事にすがっているのはアホだけだよ」という失意に安住して、こちら側から対話の可能性を潰す。「馬鹿に対して、馬鹿正直に応じるのは、馬鹿らしい」というのはもっともかも知れないけれど、それは悪手なのでは?
国会や政府答弁などを見ていると、真面目に応対しているのが馬鹿らしく思えてくる。「税金で行った会の参加者名簿を見せてください」「はい、これがリストです」で済むような問題で時間とヒューマンリソースを浪費している。
でもこれは力関係を振りかざして、正論や良識的な対応をことごとくへし折って、学習性無力感を植え付けるパートだと考えている。「民主主義的なアプローチがなぜないがしろにされるのか?」ではなくて、民主主義的なものだからこそ権威を傘にして力尽くで押し潰されなければならない。
私たちが論理的で、客観的で、民主主義の価値観にのっとったアプローチに頼るほど、「支離滅裂で、矛盾していて、権威主義的な対応」の効果が増す。
まともなことを言っている人間が支持されるルールを毀損して、「間違ったことを言っていても、力関係と数で押し潰せばいい」というルールをデファクトスタンダードにしようとしている。
政府の不正と野党の追及といった小さな問題ではなくて、ルールそのものを変えようとしているのだが、野党やリベラル側はいまだに正論に頼るという旧来のルールを抜け出せていない。その正論や民主主義的アプローチを無力化することに特化して、確信犯的に支離滅裂なコミュニケーションを採用している。
「リベラル左翼は綺麗事ばかり言っているけど、そんなんいくら言っても無駄なのにな」という冷笑と無力感が瀰漫していることに鈍感なままで、同じ語り口で、同じ戦術で、同じ方法論を採用して、いつもと同じように順当に負け続けている。
正しいことを言っているのはわかる。でもその正しさに何の効力もないことに目を背けながら、何年も同じ内容の正しさだけを掲げているのを見ると、「あほくさ」としか思えなくなる。なんかもう、無意味な正しさに死ぬまでしがみついていてくれ、という気分だ。SNSで政権批判をするぐらいなら、催眠音声を聞きながら乳首を開発したほうが気持ちいい。
・自分の力ではどうにもならないものを求めるのはしんどい。
ソーシャルメディアでフォロワーを増やして影響力を高めよう!この時代はセルフブランディングが大切!積極的に自分を売り込もう!というのは正しいと思うのだが、下手をすると自我が肥大化しやすい環境にあるのかも知れない。他者からの評価は自力ではどうにもならない。それが欲しいとなると自分を実寸以上に見せようとしたり、他者からの評価を過剰に求めるようになる。他者からの好意という自分の力ではどうにもならないものを、どうにかして手に入れようとするのは苦しい。
自分の力だけでどうにかなるものと、自力では絶対にどうにもならないものの区別できなくなって、どこまでも「他者の好意」みたいな不確かなものを求め続ける。ある程度は努力と相関する場合もあるけれども、他者の気持ちを自分の都合がいいように利用したいと思ってしまうのは、あまりいい心の状態では無いような気がした。
わたしをみて!評価して!もっとスポットライトを当てて!いいねを押して!わたしをもっと見て!見て!見て見て見て!……という、承認を求める地獄にいるみたいで、他者の評価を求める餓鬼のようになっている。
自己充足する方法を忘れてしまって、他人から好ましく思われるために特別な自分を手に入れることに執着する。そのままの自分を肯定するというのもだんだん難しくなってくるし、何か他者から評価されるような、価値のあるものが欲しいと思ってしまう。
この感情に振り回され始めるとしんどいし、自分がどう思うのかでは無くて、他者がどのような反応をするのかが評価軸になってしまう。それは精神衛生上良くないと思ったので、なるべく自己完結、自己充足、自分がおもしろいと思うのがいちばん!という自分ファースト主義を心がけるようにしている。
・消耗品としての本
紙の書籍は物理的な寿命が長い。ページが汚れても日焼けしても文章が無事ならいつまでも読める。その一方で書かれてあるコンテンツの方が先に死んでしまう。食べ物は胃に入れたらなくなってしまうけれども、書籍は物理的に消費されるということがない。だから本の貸し借りができたり、かつてのベストセラーがブックオフで捨て値で売られたり、読んだ本をそのままフリマアプリで転売できる。
電子書籍はある意味で「本を商品として最適化する」試みだ。端末とコンテンツをひもづけて貸し借りできないようにする。中古で手放せないようにする。長編マンガのような場所を取るコンテンツを消費しやすくする。
メルカリの「借りるように本を読めるようにしたい」発言、ツタヤ図書館、人文学を軽視する風潮は、書物と商品を同一視しすぎた上での当然の結論だ。短い時間で読み捨てられて、次々と新しい商品を買ってくれればいい。情報をストックする必要なんてない。企業収益を最大化する本がいい書籍だ。
「本なんて消耗品でいいじゃん。読んだらそのまま読み捨てるなり、売り払うほうが効率的じゃん」という価値観が、言葉の端々からにじみ出ている。「人文系?そんな役に立たない知識よりも、すぐに企業収益に結びつくコスパの高い知識を学生に教えろよ」
こういうコストパフォーマンスを偏重するような価値観に慣れ親しむと、文化はやせ細っていく。
メディアミックスしたマンガを十何巻も買って、何回か読んだ後に置き場所がなくなって捨て値で処分する。これを何度か繰り返したあとに、自分が本もマンガもコンテンツも大事にできていないと思った。
本は消耗品じゃなくて建築材に近い。煉瓦をひとつずつ積み重ねていくように、本棚に本を並べていく。そうすると本棚が引き締まっていくし、ほんの少しの時代の流れには左右されない頑強な本棚ができあがる。人文学的教養というのは、その煉瓦を積み重ねて作られた城塞都市のようなものだ。
それを成り立たせるためには耐久性のある文章を書かなければならないのだが、それは読み捨てられる書籍を漫然と消費するよりも困難なことだ。
・追記。
また公立の博物館や図書館について、観光資源やまちづくりの拠点として活用しやすくするため、所管を都道府県と市町村の教育委員会から自治体の観光政策課などに移せるようにすることも盛り込みました。
このニュースを読んだときに驚いた。図書館が市民の知的成熟に資するものではなくて、ただの観光施設としてしか捉えていない。図書館はただの公共貸本屋で、観光資源として人を集めるのがいいという倒錯した価値観をあらわにしている。ここまで言葉や記録を軽視する態度も病的だと思うよ。
・AIの擬神化について
囲碁の解析にAIが導入されてから、中国流や小林流などの有力な布石作戦が下火になってしまった(らしい)。入ってきた石を攻めて優勢を築くタイプの布石作戦は、勢力を制限されると弱い。人間が思いつかなかった斬新なサバキをAIが編み出して、布石作戦のアドバンテージを潰してしまった……とNHK囲碁講座に書いてあった。
何十年もの時間を費やして積み重ねてきたものがマシンパワーとテクノロジーによって蹂躙される。人間と機械が新しい叡智を生み出す可能性を感じる一方で、人工知能が人間の感性を駆逐する時代の幕開けにも思える。でも人間が機械を神格化して、真理を教えてくれる託宣装置(オラクルマシン)として扱い始めるのは、遠回しに人間性を否定しているような気がする。人工知能もコンピューターもただの機械なのだけど、それを過剰に偶像視するのは人間の側だ。
昨今のAI関係の論調を見ていると、人間側が人工知能をただの技術や道具以上のものとして扱っているように感じる。「機械が単純作業を奪う」と人々が口にする時には、機械やAIを移民労働者みたいに人格化する。囲碁AIの場合は人間を超越した異質な存在に見立てる。複雑な計算しかしていないものに、意思や心、人格があるように見なしてしまう。
人工知能が答えを出すプロセスはブラックボックスになっている。人間の知性とは異質な非人間的なプロセスを持っているが故に、非人間的な存在――たとえば、古代の人間が精霊や神と呼んでいたものに近い存在になりつつある。人間の側が、機械や道具という枠組みを超えてテクノロジーに対して特権的な地位を与えている。
無機物を擬人化するのは日本文化のアミニズム的な風土の影響が大きい。GAFAによる寡占や巨大な単一のサービスに収束していくのは、キリスト教圏の一神教的な感性が下敷きになっているのかも知れない。
テクノロジーと神・精霊というのは全く真逆のものに思えるけど、それぞれの文化が育んできた宗教的価値観によってドライブされている部分があるのかもと考えると面白いように思う。
・地球温暖化と豊かさのオルタナティブ
昆虫食べたい。熱したフライパンでバターと薄切りガーリックを炒めて、キッチンに香ばしい臭いが広がったあたりで芋虫を投入。表面がこんがりするまで炒めた後に醤油を回し入れて、塩とこしょうで味を調える。エビのようなぷりっとした食感と、肉厚な食べ応えは昆虫食だとは思えない。チリソース炒めでエビチリ風にするのもおいしいね!……というような昆虫料理が食べたい。書いていておなかがすいてきた。
なんで唐突に昆虫クッキングコーナーが始まったのかというと、地球温暖化対策と人口爆発への現実的なアンサーが昆虫食の普及だからだ。
地球温暖化を緩和するためには、現在の経済活動や消費そのものをドラスティックに変革しなければならないのだけれども、「地球温暖化対策=経済的に貧しくなることを強要される」のだと勘違いしてしまう。確かに環境に負荷を掛ける牛肉は軽々に生産できなくなるし、これまでのように電力を使えなくなるかも知れない。車社会は見直さなければならなくなって、移動するのも不便になるだろう。経済成長のために地球環境を犠牲にする資本主義は成り立たなくなる。
温暖化探索を冷静に考えると、今の生活を成り立たせている上で享受している「当たり前の浪費」を手放す必要に直面する。地方都市で生活するためには車が必要不可欠なのだが、それは地球温暖化対策には反する。でも数十年先の破滅よりも、車が無いと生活も通勤もできないという目の前の必要性を優先してしまう。
車が無くて牛肉を食べなくても、そこそこ満足のいく暮らしができるという「豊かさのオルタナティブ」を提示できない限り、積極的に地球温暖化対策をしようとは思えない。
環境保護のためにまずい昆虫を食べましょう! 地球の未来のために不便な生活を送りましょう!……ではなくて、「昆虫は安くておいしいよ! 昆虫食べよう!」といったライフスタイルの展望が必要だ。新幹線に乗れば数時間で東京に着くというような世界では無くて、交通機関が退化したせいで東京に行くまではくっっそ遅いローカル線を乗り継がないといけないけれども、地方都市に立ち寄りながら観光しつつ目的地を目指す……というような、スローダウンした世界を受け入れるメリットを提示できるのか。
あと、蝉の脱け殻的なものの中にチョコレートを入れれば、サクサクした食感が美味しいお菓子になると思う。
・共感できないことに共感するために。
自分が味わった苦しみでなければ、他者の痛みを理解できない。
もしそれが真実だとしたら僕たちの共感は極めて狭い範囲にとどまることになる。ゲイではないからゲイの苦しみはわからない。発達障害ではないから、被災者ではないから、レイプされたことがないから、いじめられたことがないから、過労死したことがないから、戦争被害者ではないから、住んでいる場所に米軍基地がないから、あなたの抱えている痛みは私には理解できない……という理屈になる。
自分が苦しんだことでなければ、その痛みに心の底から共感することはできない。それを無視して「あなたの抱えている苦しみはわかります」といっても、嘘にしかならない。僕はあなたの抱えている苦しみに共感できないし、同じ苦痛を味わうこともない。
でもその中でひとつだけ理解できるものがあるのだとしたら、「言葉を尽くしても理解してもらえない苦しみ」なのかもしれない。
ある種の苦痛は、人に説明するのも面倒臭いし、理解してもらっても結局その人にとっては他人事にとどまる。「あなたの事情はわかりました。でもそれが私にとって何の関係があるのですか?」という反応をされる。そういうことを繰り返していく間に、他者に言葉を尽くして、自分が置かれている状況を理解してもらおうとは思えなくなっていく。話すことに意味はない。他者には自分が置かれている環境に共感するすべもなければ、理解する義理も無い。それにわかってもらえたところで、何をしてもらえるわけでもない、という諦めを抱くことになる。
問題それ自体よりも「他者には決して理解してもらえない」という失望のほうに打ちのめされる。自分が置かれている苦痛には耐えられても、その痛みが他者にとっては何の意味を持たないことのほうが苦しい。
けれども、言葉を尽くしても理解してもらうのが困難な苦痛を抱えているという点だけなら、共感できるのかもしれない。痛みも苦しみも固有のもので、軽々しくわかったと言ってはいけないような気がする。人の苦しみを勝手に理解したように振る舞われるよりかは、「共感したいのはやまやまだが、自分には完全に君の痛みを理解できない」と言ってもらった方がいい。
「でも、人には理解されないのは苦しいよね。自分にもそういう痛みはあるよ。たぶん、君にも理解してもらえないと思うけれど」という、理解されがたさの相互理解しかできない。だけれども僕はそれ以外に理解できるものはないように思える。
幸福と快楽を取り違える話。
百年前に比べると生活水準は格段に向上して、餓えや病気によって死ぬ危険は格段に減った。高度な生産力を持つ資本主義の恩恵にこうむって、商品を安価に手に入れられる。栄養バランスは取れていなくてもカロリーだけなら手に入る。
囲まれている商品の品質だけで言えば、このうえなく贅沢な暮らしを享受している。でも満たされていることと幸せを感じることは別物だ。
おそらく僕たちは幸福と快楽の区別がついていない。原始的な快楽が満たされることを、幸福と同一視している。それはあまり幸福ではないように思える。
快楽は他者との比較から生まれる。周囲の人間が自分よりも恵まれていると思ってしまえば、劣等感という不幸・苦痛を生む。生存に必要なものを過不足無く満たしていたとしても、不幸せになる。
自分が幸せかどうかを決めるのは、何を所有しているかではない。
自分は他者と比べて何を多く持っているのか、何が欠落しているのか、何が優越しているのか、何が劣っているのかを基準にしている。そうやって自分が幸せか不幸かを相対評価している。
僕たちが幸福だと思っているのは、優越感であることが多いのかもしれない。不幸だと思っているのは劣等感でしかないのかも知れない。
一年中、僕たちは「誰が優れていて、誰が劣っているのか?」という内容の番組やニュース、スポーツに接している。常に自分と他者を比較し続けたり、比較されたり、ランキング付けされたり、序列化されるような価値観に巻き込まれている。
この世界で不幸にならないためには、自分が他者よりも優れた人間であるということを証明し続けなければならない。もしそう考えるのだとしたら、僕たちが手に入れられる幸福は他者との相対評価によって簡単に不幸せに変わってしまう。そのような壊れやすいものを幸福だと呼びたくない。
もしかしたら自分が幸福だと思っているものは、幸福とは程遠いのかもしれない。幸せになりたいのに、刹那的な快楽と幸福を取り違えてしまう。優劣を決めること、所有すること、数字の増減に執着することに何の疑いも持っていないのだけれども、それは歪んだ思考なのかもしれない。
・日本人の方が怖い。
中国人や韓国人よりも日本人の方が怖い。目の前にいる人間が何を考えているのかわからない。普通に見えるけれども、差別的な価値観を許容するのか。国籍などの条件で他者の扱い方を変えてしまうのか。生活保護に辛く当たるのか。
差別意識そのものよりも、ある条件次第を満たせば、他者を自分たち側と外側に分けられるメンタリティが恐ろしい。自分たち側に属している者には人間らしい扱いをするが、もう片方は人間として扱わない。
何が差別されるのかも明確な条件があるわけではない。自分がいつ、排除される外側の人間になるかどうかわからない。
反韓も日本国籍を持った外人アスリートも外人スモウレスラーも生活保護も沖縄の基地問題も、あらゆるものが、自分たち側に認定した人間には同胞として振る舞うけれども、外側の人間には辛く当たるという価値観が共通しているように見えた。
村社会のメンタリティを国家規模にまで拡張して、よそ者か否かしかの判断基準しか無い。近代国家ではなくて国家規模の村。
自分が日本人だと周囲から認められる限りは日本人として扱われるけど、一度でもその枠組みから外れてしまった非国民になる。その判断基準には客観性がなく、雰囲気で決まってしまう。
そう考えると、どのような状況でも人権をワイルドカードとして使える社会はいいな! 目の前の人間を人として扱う義務が発生することと引き替えに、自分を人間として扱ってもらえる。個々の人間が生まれつき人権を天賦されているのでは無くて、人間同士が相互に「あなたを人間して扱うから、私も人間扱いしろ」という契約を結ぶ。
たとえば表現の自由があるから何を喋ってもいいのではなくて、相互に人間扱いするというルールに反しない範囲で表現の自由が許される。他者を人間扱いするというルールがまず基盤にある。権利を行使した結果として他者を非人間として扱ってしまうのは、言動が矛盾してしまう。
おれもなるべく他者を人間として扱うから、おれのことも人間扱いしてくれ。
・チーターから逃げる努力
「わざわざ政治の話題に関わっているやつは人生を無駄にしているアホwwww 賢いやつは上手く立ち振る舞って、自分が犠牲にならないポジションを確保しているから関係ないし、もし今のお前の生活が苦しいのだとしたらそれはすべて自己責任wwww」みたいな空気を感じているのだが、これってどこからきているんだろうな。日本社会全体にこの不健全なマインドが行き渡っているような気がして気持ちが悪い。
「チーターから逃げるには動物よりも速く走る必要は無い。一番足の遅いやつよりも少しだけ速く走ればいい」というジョークがあるのだが、皆が「チーターから逃げるマインド」を過度に内面化しているように見える。
カーストの最下層に落ちないように必死になって、自分では無い誰かを犠牲にする。
なるべく鞭を打たれないように適切に主人にこびを売る奴隷や、保身のためには仲間を打って生き延びようとするアウシュヴィッツ収容所のユダヤ人の立ち振る舞いに近い処世術が骨の髄まで染み入っていて、本人はそれを「いい具合に立ち回った」と思い込んでいる。それに近しいマインドが、頭のいい人間の振る舞いからだと見なすような価値観が広がっている。反対にシステムに反抗する人間や、異議を唱えて目をつける人間が、非合理的なことをしているアホに見え始める。
そこそこシステムと折り合って支配者にしっぽを振ることを覚えれば、それなりにおこぼれに預かれる。それが最善では無いことはわかっているが、無理にリスクを冒して苦しむ必要は無い。それってある意味ではトリクルダウンだ。
そういう風に振る舞うのが賢いと思っている人間にとって、デモをしたり、異議を唱えたり、現状を変えようともがき苦しんでいる人間は目障りに映る。あいつらと同じだと思われたら、今まで通り甘い汁が吸えなくなくなる。権力者に寵愛を受けられる立場が崩れ去ってしまう。
努力すれば報われるというのは、頑張って死ぬ気で走ればチーターの餌食にならずに済むということと変わらない。「チーターにかみつかれた? それはもっと速く走らなかったお前の自己責任だ。他の人は食べられないように必死になって走っているんだ。甘えるな」という言葉がまっとうに聞こえるぐらいに、この価値観が自明なものになっている。
・「理不尽で無意味なことへの強制」を武器とする権威主義について。
権威主義では理不尽な命令に従わせる方が、上下関係をより明確にできる。誰もが納得できる妥当な命令では相手を服従させたことにならない。命令が理不尽かつ危険で、意味がないものであればあるほど、強制が意味を持つようになる。
小学校の組み体操だったり、敬礼をしているようにはんこを傾けたり、辺野古の基地移設を強制したりするのは、「それが理不尽で意味がないことだから」という理由に尽きる。「私は理不尽で意味のない行為を相手に強制できるぐらいの権力を持っている」という形で、自らの全能感を確かめようとする。対話を通じて説得できるような合理的な命令では、自分が強い立場にいると実感ができないからだ。
命令する側は「理不尽なことを強制できる」全能感を、服従する側は「理不尽なことを受け入れざるを得ない」屈辱と無力感を与えられることで、支配-被支配関係がより強固になる。服従するたびに「私はこのような理不尽な命令に屈せざるを得ないほどに無力な人間である」という風に無力感を学習するか、あるいは「自分のやっていることは正しいのだ」と自己欺瞞に陥って認知不協和から逃れる。
けれども理不尽で無意味なことを使って支配構造を強化していく間に、社会は非効率的になっていく。合理的かつ効率的で、意味のあること、対話を通じて説得できるものが重要視される社会では、支配構造は崩壊してしまう。「私とおまえは対等な人間ではない」ということを常に思い知らされるような社会でなければ、権威主義は効果を発揮しない。
「私たちは対等な人間である」という意識が芽生えたら、理不尽で無意味な権威主義は意味をなさなくなる。権威主義は単純な上下関係ではなくて、複雑な階層構造になっている。支配者対被支配者という二元論ではなくて、きめこまやかな尺度による日本国民ランキング制度みたいなものがあるような感じだ。
自分よりも上位の人間には服従しなければならないが、下位の人間には尊大に振る舞っても許される。被支配者でありながらも、誰かにとっての支配者になれるという共犯関係が築かれる。
人間は平等だという理念よりも、「私とおまえは対等な人間ではない」とか「分をわきまえろ」という社会的なメッセージの方が強い。自分よりも下だと思った人間にはどれだけ辛辣に接してもいい。これを「ランキングカースト制度」や「ランキング権威主義」と呼んでいる。
現在のいじめやスクールカーストは異常な現象では無くて、日本社会で生き延びるための極めて実践的なカリキュラムだ。ランキングカースト制度で、他者よりもいいランクを獲得するために上手く立ち振る舞う。システムを変えるのでは無くてルールの中で適応する。こういう社会だと「私たちは対等な人間である」という意識は育ちにくい。
人間は平等だという理念は実態には即さないけれども、人間は不平等で優劣があるという価値観は権威主義や差別を生み出す温床になる。
・失敗すると自分を責める。
パズルゲームをやっていて失敗するとムキになって成功するまで続けることがよくあるのだが、無意識のうちに「失敗する=自分が低能であることの証左」と考えてしまう。「そんな簡単なこともできないのはおまえが低能で頭が悪く、人間としての価値がないからだ。さっさと死んだ方がいいよ、マジで」ぐらいの感覚を抱く。その観念をふりほどくために成功するまでチャレンジをして、「いやおれはできるんだ。人間としての価値があるんだ!」と自分に言い聞かせようとする。この思考の歪みはやっかいなのだけれども、どう対応するのが正解なのかわからない。
「自分はできる!」という自己効力感と、「やっぱりおれは人間のくずだ……こんな簡単なこともできない……」という無力感の間を心が激しくスウィングしていて、休まるときがない。失敗はただの出来事ではなくて、無能人間証明書が発行されているに等しい。
俺の中に住み着いているネガティブマインドが、些細な失敗をあげつらっておれの自己効力感を切り崩しにかかってくる。ほんの些細な失敗でもいいので、常に攻撃材料を探している。
この強敵に打ち勝つためにはLSDを服用して、おれをほめてくれるおねえちゃん(CV.沢野ぽぷら)の幻聴が聞こえるようになるしかない。幻聴も薬で治そうとするのではなくて、対話をすることで徐々に幻聴と仲良くなっていくと症状が軽くなるらしい。
問題は自己肯定感がいちじるしく低いことだ。簡単なことで自分を責める。完全にこなすか、一つでも失敗したら全部台無しかの極端な思考をしていると思う。「細かい部分でしくじったけど、死ぬわけではないからだいたいおっけー!」……みたいなざっくりとした思考ができない。てっとりばやく自己効力感を得られる娯楽に手を出すと楽なのだが、それではインスタントな自己効力感ジャンキーにしかならない。
自己肯定感を高めればいいとよく言われるのだが、むしろ屑な自分でもいーじゃん!という気持ちになった方が早いのかもしれない。自己効力感を高めるというのを、できないことができるように努力した結果、自分を肯定できるようになる……という風に思っていた。自分のことが好きになれない?だいじょーぶ!どんなにんげんも最終的には死ぬから、そんなことは悩むだけ無駄な問題だよ!
・なんとなく、ポリティクス。
明確な差別意識や保守思想よりも、「みんながそう言っているから、そうなんだろうな。よくわかんないけど」という、なんとなくの雰囲気の方が怖い。荒らし(トロル)や極端な意見をもった人は全体の1%程度に過ぎないと言われても、それが全体の空気を支配しているように見えるのだとしたら、「ネトウヨなんて少数派に過ぎない」とは言っていられない。
特に激しい差別意識を持っていなくても、「なんとなくあいつらは悪い奴ららしい」「なんとなくあいつらは叩いても許される」「なんとなくマジョリティに迎合する」という空気に影響されて、なんとなくの軸がシフトする。
これまでもなんとなく民主主義が大切だと思ったり、なんとなく平和がいいと思ったり、なんとなく原発は危険っぽいし、なんとなく憲法は守った方がいいと思っていたわけで、物事を深く考えていたわけではなかったから仕方がない面もある。
空気や雰囲気が少数の手によって操作可能なほどに脆いもので、あらゆるものがなんとなくで動いている。なんとなくで考えていることが平和主義なら他者に害は及ぼさないのだが、なんとなく攻撃的になってしまうのはよくないことなのかも知れない。
そろそろなんとなくがゲシュタルト崩壊を起こしてきたので、なんとなく文章を終えたい気持ちになってきた。
・思い込みの国で。
東日本大震災の経過を見ていると、問題がすでに解決したという欺瞞を共有することで無理矢理終わらせてしまったように感じられる。原発が廃炉になるまで少なくとも40年はかかるとはじめは言われてたのに、汚染水処理のめども立っていないし、廃炉までのスケジュールも遅れている。それなのに「もう終わってしまった出来事」として扱っている。
第二次世界大戦が終わったものだと信じていたけれども、東日本大震災を処理したときと同じ思考回路で「終わったことにした」のではなのかと疑っている。戦前の組織や文化風土を温存したままで、「日本は民主主義国家に生まれ変わった」と頭の中で思い込むことによって、戦前から訣別しようとした。
それ自体は悪いことでは無いけれども、ソフトウェアの改善だけを追求して組織や風土、国民性、教育、法制度などのハードウェアをそのまま温存した。ある特定の価値観を国全体で共有することで「現実をそういうものだと思い込む」システムは、日本の近代史を貫いている。
日本は大東亜共栄圏の宗主国であるべきだ、日本は反戦平和を掲げた民主主義国家であるべきだ、日本はGHQの軛(くびき)から逃れ憲法改正とともに真に美しい国を目指すべきだ。これらの主張は思想的に真逆だけれども、どれもがハードウェアを欠いた思い込みの産物という点では大きな違いは無い。
ハードウェアをどう変えるのかよりも、「こうあるべきだ」という理念の方が優位になる。 憲法9条は「戦争をしてはならない」というソフトウェアだけれども、「日本はすごい!」と思い込むのと、構造としては同じものだ。
日本社会は「皆があるひとつの物語を心の底から信じることで、あるべき現実の姿を形作る」という手法によって築かれている。民主主義的なプロセスを通じて民主主義国家を成り立たせるのではなくて、皆が「日本は民主主義国家である」と思い込むことで戦後日本社会を作り出そうとしてきた。
その「日本は民主主義国家である」という思い込みの力が徐々に弱くなっていて、それとは別の「日本はアジアの中心で輝くすばらしい国である」という価値観が徐々に勢いを増していく。不用意に日本語メディアに接していると、この種類の思い込みが補強されるように感じられる。
・異質なものをマネジメントする技術。
日本ラグビー優勝と、サッカーワールドカップのピュアジャパンチームと大阪なおみ選手に対する人種差別発言とカルロス・ゴーン拘留と外国人技能実習生や難民への辛辣な対応とその他諸々の価値観や対応に一貫性がなくて、脳みそがバグっていた。このあとにハンストしていた難民がそのまま餓死したという話を聞いて思考がフリーズする。
産経新聞が一面で多様性の勝利だと報じていたけど、日本の国益に奉仕できる人間にだけ認められる多様性のように感じられて、みょーん……という気持ちになる。
「同じ言葉を喋って、同じ文化を共有していて、同じ人種的特性を持っている、極めて均質的な人間が日本人だ」という視野の狭い感覚が自分の中にもある。
外見と言葉は同じでも育った文化が違う帰国子女だったり、同じ言葉で同じ文化を共有していても外見が異なる人への対応が常識化されていないので、不必要なところで差別意識が噴出するのかも。
均質な集団をマネジメントする経験には慣れているけど、異質なものが紛れ込んできたときにどうするべきなのかという知識が無い。だから外国人や障害者、イレギュラーな存在を除去するしか対応策が無くなってしまう。そういえば障害者公務員を大量に採用したけど、活用できなくてぐだぐだになった件もあった。
これは差別の話であると同時に、異質なものをマネジメントする技術が足りないだけでもある。マネジメントする技術が無いから差別意識が生まれて、差別意識があるから運用するノウハウを積み重ねる前に排除するという悪循環になっている。
・受け手を信頼しないと言葉が死んでいく。
週刊ポストのヘイト扇動記事騒動を端から眺めていて、批判するよりも前に「この人たちが想定する読者像は、ヘイト記事を読んで喜ぶような人たちだったのだろう」と感じた。
テレビ視聴者の知能は低いからこの程度の品の無い演出でいい。読者は馬鹿だから、適当に反韓感情を煽れば雑誌が売れる。ユーザーは愚かだから課金への導線を作って、ギャンブル依存になるようなビジネスモデルを作ろう。ライトユーザーは複雑なゲームシステムを理解できないから、派手な演出を見せて画面を猿みたいにポチポチと押し続けていればいい。あいつらはストレスのない世界でハーレム展開にしておけば喜ぶよ。今の読者は難しい漢字を読めないから、なるべく平易な表現を使わなければならないよ。インターネットユーザーは感情的に反応するだけの連中だよ。
金儲けをするためには馬鹿に基準を合わせて、上手に搾り取るためのビジネスモデルを構築するのが一番だ……というような価値観を内面化すると、アウトプットするものから受け手への信頼が失われていく。
もしその現状分析が正しいものだとしても、受け手のレベルを低く見積もることでアウトプットするものに軽蔑や諦観、嘲笑といった感情が混じっていって、作り手を弱い酸のように蝕む。
受け手の理性や善性、知性を信頼するのは綺麗事では無くて、アウトプットの質を高めるために不可欠なものだと思う。自分の言葉や考えが相手に伝わると信頼できるのか、それとも「あいつらは馬鹿だから、話をわかりやすくしないと理解できないんだぜw」と軽蔑するのかは、あらゆる表現者の分水嶺だ。
「日本人は基本的な人権感覚が無い。ここは中世蛮人国家ジャップランドだぜwww」とか、「どうせ日本人のリテラシーはこの程度だから、SNSでのフェイクニュースにすぐ騙される」みたいな言説はいっときの優越感を得られるけれども、長期的には自分の言葉を殺していく。
・怒ったり、憎悪するなら本気でやれというお話。
政治クラスタを根こそぎブロックしたら精神が快適になったのだが、「それでいいのか?」とも思う。たしかに四六時中SNSに張り付いて批判する人も必要だけど、拳を握りしめたままの精神状態だと疲れてしまう。
いつも怒っていると、どーでもいい不祥事や事件でエネルギーを消耗して、本当に心の底からブチ切れるべき問題に対して反応できなくなる。平常時と怒りの落差が無くなって、温い怒りと温い批判に終始するようになる。
本当に怒りを向けるべき対象を見失って、気に入らないものに手当たり次第噛みついているように見えた。正しいことを言っているのは理解できるのだが、正義と居心地の良さが両立しない。
怒るのは良くないと言っているのでは無い。弱火でじっくり、とろとろと焼かれているような怒りでは満足できないという話だ。いつも不機嫌な状態でいるとそれがデフォルトになって、怒ったときに生み出される感情のエネルギーが少なくなる。怒りはいつしか嘲笑と哀れみに変わり、ただの惰性になる。
不機嫌な気持ちで怒りを小出しにしていくうちに、純度の高い憤怒を忘れる。
私たちに必要なのは、心の底からブチ切れる技術では無いのか?
もっと破壊的で、己の肉も骨も焼いていくような怒り。喜んで相手と自分の墓穴を掘って人を呪う覚悟。そういう種類の怒りとも憎悪とも区別の付かない感情を忘れて、
怒りをあらわにするのも、ヘイトを向けるのも本気でやってくれ。へらへら笑いながら「韓国とは断交すべきですよ~www」と言うような態度はおれは認めない。嫌韓も根拠の無い雰囲気の産物でしかないから、生ぬるい差別感情しか抱けない。レクリエーション感覚で口汚い言葉を喋って、匿名の影に隠れて憂さ晴らしをするようなことしかできない。
リベラルも威勢良く「安倍政権を倒す!」と口にしているのが、心の底では政権交代ができると信じていないから、あれだけ気前よく負けられる。すでに安倍政権を倒すことを諦めて、「改憲勢力が三分の二を超えることを阻止する」という地点まで戦線を後退させている。
どちらが正しいという問題では無くて、中途半端な感情しか抱けないことが不満だ。生ぬるい怒りと半笑いのヘイトだけしかないのでつまらない。
最初は「いつも怒りっぱなしなのはよくないので、穏やかにやろう」と書こうとしていたのだが、いつの間にか「怒ったり、憎悪するなら本気でやれ。中途半端な感情表現をおれは認めない」という話になった。なんでだ。
・思想と免疫。
ハイデッガーがナチスドイツの思想に同調してしまったことはショックだし、知能の高い高学歴の人たちもカルト宗教の教義を信じてしまう。才能や技術をもったクリエイターが人種差別的な発言をする。それは思想に対する免疫と知性は必ずしもイコールでは無いということなのかもしれない。
僕たちの使っている言葉の性質は、病原菌と免疫の関係に似ているように思う。屈強な身体を持った人間でも、免疫の無い病原菌に感染したら命を落とす。それと同じように、知能の高い人も耐性の無い思想をそのまま受け容れてしまう。
全体主義や独裁を警戒できるのは、これまでの歴史から学ぶことで危険な思想に対する免疫ができるからだ。だが免疫が全くない状態でファシズムのような思想に触れたときには、自分はどんな反応をするのだろう? ……ということについて考えていた。
免疫が無い以上は、病原体を寄せ付けないように手洗いうがいをしっかりして、あとは病気にならないように祈るしか無い。それ以前に、目の前の思想が害を及ぼすものか否かはあとになってみないとわからない。
そう考えてみるとある思想やイデオロギーに影響されるのは、そのときの運や環境による要因が大きいのかも知れない。その時々の運や巡り合わせで、差別主義者や社会主義者、ファシストや環境保護主義者や人道主義者になったりする。
僕たちはよく「ある政治思想やイデオロギーを持つ」と言って、思想を所有物のように見なしているけれども、それは違う。
人間が自由意思で思想を選ぶのではなくて、思想それ自体が人間をミームを複製するための道具として利用しているのではないのか。風邪を引いた人がくしゃみをして病原体を飛沫感染させるように、口からは政治的発言が飛び出すようになる。そういう風に見えることが多い。
・自分はイデオロギーという言葉を「言葉が現実を超過した状態」として扱っている。目の前にあるものをそのまま見るよりも、「AはBである」という言葉のほうを信じて、その言葉に沿うように現実認識を変形させるようになったら、どんな種類の信仰や思想を抱いていても関係がないと思う。
・無思考主義。
日本社会が右傾化したとか、歴史修正主義者が増えたみたいな思想の話では無い。なるべく思考を使わずに済むようにして、知的負荷が掛からないような現実認識を作り上げる。その行動を繰り返した結果として今の惨状がある。
偏見や差別があるのは明確な差別意識を持っているからでは無くて、偏見で処理した方が楽だからだ。
実際にどうなのかを調べるよりも、自分がどう思うのかを参照にした方が負荷が掛からずに済む。歴史問題を考えるときも、すでに頭の中にある歴史観を使って済ませる。生活保護の話題には「働かざる者食うべからず。不正受給絶対反対!」と罵り、ジャーナリストが国外で拘束されたときには「政府に迷惑を掛けるな!」という言葉を発する。左派も「安倍政権打倒、オスプレイ反対、原発廃炉」というフレーズを繰り返す。
思考のテンプレートを使えば、それ以上考えなくてもいい。
右傾化と呼ぶのは適切では無い。「難しいことを考えなくてもいい言説」が好まれているだけだ。地球の平均気温が一度上がったときに世界経済が被るであろう影響に思いを馳せるよりも、「地球温暖化は中国が先進国の競争力を削ぐためにでっち上げた陰謀論だ!」と言い切った方が、それ以上何も考えなくていい。
現状のままでいい。難しいことは考えなくていい。自分にとって気持ち良くなれることだけを考えていればいい。私の言うことを信じていれば、すべては良くなる。余計なことは考えるな。
ポピュリズム以前に、「頭に負担がかからない思考や思想」が好まれるようになってきたように感じられる。民主主義の反対は独裁制では無くて、「余計なことを考えるな。いいから黙って言われたことをやれ!」主義だ。
考えるべき社会問題が多岐に渡っていて、すべてに対して思考リソースを費やすのは不可能になっている。経済と原発と国防と地球温暖化と憲法と戦争とその他諸々について、同じレベルで論じるのは不可能だ。どうしても「頭に負担がかからない思考や思想」を使って、思考リソースを節約してショートカットせざるを得なくなる。
そもそも情報が氾濫して人間に扱いきれない量になっているよね。
・過現実
SNSを触るのが嫌になり、ゆいいつできるのがマストドンぐらいしかなくなってしまった。Twitterは人との距離が近すぎる。
テレビなどのマスメディアから発信された情報が、SNSを通じて更に増幅(アンプリファイ)される。そしてネットの反応にマスメディアが影響を受ける……というサイクルを「過現実」と呼んでいる。
マスメディアとネットがそれぞれ独立した世界では無くなって、歪な形で融合してしまった。SNSはテレビや時事問題、ニュースのコメント欄のようになり、マスメディアと一体化してしまったように見える。
マスメディアを中心とした現実媒体と、パソコンでのネット文化、ガラケー文化がそれぞれ混じり合わなかった時代に生まれ育った。現実で流行しているものと、ネットで流行っているものは異なっていた。一つの国に、現実が複数ある。これは「複現実」と呼ぶことにする。
マスメディアが嫌になればネットに逃げれば良かったし、ネットが嫌なら現実に触れるという風に、二つの世界を行き来できた。それがいつの間にか、ネットが現実を補強する要素の一つになってしまった。別れていたマスメディアの現実とネットが融合して、現実=インターネットになった。ネット以前の単・現実では無くて、複数の現実が統合されて生み出されたものが「過現実」だ。
ゼロ年代までのネット世界を理想化している部分もあるけれども、インターネットはかつて異世界だった。現実社会こそが主流で、ネットで流通しているものはアマチュアかセミプロのお遊びか、既存の商業ルートでは流通し得ない訳あり品だった。
それが現実に取り込まれて、価値観も流通している言葉も単一化・平板化した。あるいは反対にネットで生まれたいびつなものが、現実を侵食する。それに未だに馴染めずにいる。
たぶんインターネットにサードプレイス的なものを要求していた。日本社会で気軽にアクセスできるサードプレイスがゲーセンかインターネットぐらいしか無かった。それがいつの間にか、他者から攻撃されないように緊張していなければならない場所になってしまった。
・図解 はじめて学ぶ みんなの政治 | 晶文社
これを読んでいた。基本的な知識が簡潔にまとまっているので、入門や復習にはちょうどいい。
おれは敵味方に分かれて激しく罵倒し合っている政治クラスタが好きではないのだけれども、そーいうぎすぎすした雰囲気が嫌になってしまった人こそ読んで欲しい。現在の日本では、政治的な活動にコミットすることが、敵陣営と不毛な言い争いを続けることと同意義になってしまった。朝起きたら安倍晋三を非難したり、お花畑のクソ左翼を嘲笑したりする行為が「政治的なこと」だと思われている。最初に触れる政治的なものが、品を欠いた誹謗中傷の域を脱し得ないのだとすれば、誰だってこんなクソみたいな界隈に関わりたくないと思う。おれも正義を振り回して、罵り続けるような場所にはいたくない。
この本のいいところは「政治とは意思決定のプロセスである」という当たり前のことを思い出させてくれる点だ。合議形成し、権力が一カ所に集中しないようにして、マイノリティの意見が反映されるようにする。
自分はどうしたいのか、他人は何をしたいと思っているのか。異なる意見がそれぞれ適切に反映されるようになるためにはどうしたらいいのか? 「自分は何をどうして欲しいのか」を積み重ねていくことに政治的プロセスの本質がある。
「憲法を変えるべきか否か」や「地球温暖化をどうするべき」、「小さな政府と大きな政府のどちらが好ましいのか?」について論じるときにも、自分の意思がないと意味が無い。「そんな難しいことなんて知らねぇよ。おれは疲れているんだ。長時間労働しないで定時で帰りたい」としか思えないのだとしたら、そこから始めなければならない。それがその人にとってもっとも優先度の高い意思だからだ。
「自分がいま置かれている現状をどのように変えたいのか?」という基本的なことから目をそらして、大きな問題について論じるのは好ましいことではない。何を論じるにせよ「自分ならどう思うのか?」を念頭に置かないと、政治的なトピックが自分とは関係のないものになってしまう。
たとえば原子力発電政策や沖縄の基地問題でも、それを自分の生活に直接関わる問題としてとらえられない限り、自分とは関係の無い場所で起きているどうでもいい出来事になってしまう。「意思決定のプロセス」なのだから、まずはじめに自分の意思がないと始まらない。異なった意思がぶつかり合ったときに、それをどう調整していくのかを考えられるようになって初めて、政治的なものが立ち上がる。
逆に言うと、意思表明を行うよりも集団の和を乱さないことを優先する文化と、政治的なものの相性は悪いのではないのか?と思ってしまった。意思決定のプロセスに入る前に、自分自身の意見を押し殺してしまう。そのような環境では政治的なものは根付かないのかも知れない。
・グローバルスタンダードな視点の絶望的な欠落について。
カルロス・ゴーンの長期拘留や、テニスプレイヤーの肌を白く描いたことが白人優越主義だと諸外国から非難されるニュースを見ていた。実際に起きている出来事よりも、それがグローバルスタンダードな価値観に反していると気づけないことの方が深刻なのでは?
日本国内の価値観では問題にならないような事柄が、他の国では人権侵害や侮辱、非常識なものとして扱われる。自分たちのしていることが国際常識からかけ離れているという病識を持てないまま、差別的な発言や日本国内でしか通用しない価値観を全世界に向けて発信してしまう。
よくTwitterのユーザーが、自分の友達しか自分の投稿を見ていないと思い込んで公序良俗に反した写真をアップロードしてしまうことがあるけれども、問題はそれに似ている。日本国内では問題にならないと思って発言したことが、西欧の価値観に照らし合わせると人権侵害になったりする。日本国内向けに発信された表現に国際的な基準を当てはめるのが正しいのかどうかはわからないが、すくなくとも「全世界に公開」になってしまう。
ネットがインフラになるにつれて、グローバルスタンダードな価値観で評価されることが避けられなくなる。日本国内でなら不問になる偏見が国際問題になり、小規模な集会で口を滑らせたことが日本中に拡散されてヘイトスピーチとして扱われる。インターネットの隅っこで流通していた過激なポルノも、スマートフォンがあれば一クリックでコンテンツにアクセスできる。
ゾーニングができなくなった結果、不快なものを含むあらゆる情報にアクセスできるようになってしまった。嫌なものをフィルタリングしたりブロックするのではなくて、存在そのものを許せなくなってしまう。不必要な情報に触れて、本来なら抱くはずが無かった怒りを抱く。
内輪でわいわいと騒ぐことが標準で、グローバルスタンダードな価値観を前提に置いて言葉を発しなければならないというのは、僕たちにとっては不自然な行動なのかも知れない。
僕たちの使っている言葉は潜在的にマインスイーパーで、どのような発言も人生を吹き飛ばしてしまいかねない可能性がある。自動車を運転しているときにはハンドルを切り違えると死亡事故につながりかねない。それと同じように、判断力が落ちているときに発言した言葉で、今まで積み上げてきたものを台無しにしてしまう。
その可能性が常に横たわっているのは、好ましい言語環境だとは言えない。
自分の言っていることが政治的に正しくないのは百も承知だけれども、「何を言っても社会的にお咎めの無い空間」が必要ではないのかと思う。無制限に人を中傷していいわけでもないし、犯罪行為を容認しているのでもない。
「もしかしたら自分の発言が炎上してしまうかも知れない」という意識があると、自由に発言できなくなる。「この発言は公序良俗に反したものではないか?」と、常に脳の何パーセントかを自己検閲のために使ってしまう。この習慣は、思考を非効率的なものにしていく。環境に適応するために誰から見ても角が立たないような言葉を使うようになっていき、最後には毒にも薬にもならないことしか喋れなくなる。それは言葉を殺していくことに等しい。
・話し合うことについて
「話し合えばわかる」という言葉が、しばしば「相手には考えを改めて欲しいが、自分だけはこれまでの価値観を手放したくはない」と言っているように聞こえるときがある。
自分の意見は修正するつもりはないが、相手はこれまでの考えを改めなければならないと思ってるのだとしたら、永久に話し合いのテーブルには立てない。
相手の言い分に影響されて自分が変わってしまう可能性を受け入れる。それが対話に求められる前提だと思う。相手の言っていることに理があるのならば、それを受け入れる。影響を与えられる可能性を賭け金にしなければ、他者に影響を及ぼすことはできない。
その点を無視して、あらかじめ決められた結論を押し付けあうのは議論ではない。改憲派、護憲派。原発推進と脱原発。およそ考えられる限りの政治上の争点を見ていると、あらかじめ持っている政治的信念から一歩も動こうとはしないように見える。対話をしているのではなくて、一方的に己の正しさをぶつけあっているだけで、生産的に思える要素が何一つとしてない。
「お前は私たちの言い分に従わなければならない。今まで信じていた価値観を放棄しなければならない」という語法を僕たちが採用する限り、相手を屈服させるか、それとも自分が拠り所にしている価値観を打ち砕かれるかの二者択一になってしまう。
スポーツの勝ち負けのように、自分たちの側が勝つのか、それとも相手を論破できるのかという狭い枠組みの中でしか考えられないのだとしたら、僕たちは自分の非に気がつくことができない。
政治を勝ち負けや、議席数のシェア、いかに自分とは異なった考えの人間を論破できたのかという歪んだ尺度で考える余りに、僕たちはなんのために議論するのか?ということを忘れてしまっている。
何度でも言うけれども、自分が変わる可能性を担保にしなければ、対話のテーブルには座れない。賭け金を失う危険性を犯さなければ、ギャンブルはできない。
相手の言葉が筋道だっているのならば、僕は保守派、リベラル、愛国主義者、社会主義者、クリスチャンやムスリルになる可能性がある。もちろんテロリストや犯罪者にもなりうる。
けれども、主張を押し通すことを勝利と捉え、意見を変えられることを敗北とみなしている限りは、自分の過ちを手放せないし、他者に影響を与えることもできない。
・フィジカルの欠けた言葉
戦後の「人の命は地球よりも重い」と、戦前の「命は鴻毛より軽し」という言葉はセットなのかもしれない。極端から別の極端に揺れ動く。そこには命に対する観念だけがあって、フィジカルな重さがない。実感がないから自分や人の命を粗末に扱える。ブラック労働も自殺も人権軽視も、道徳観の欠如であるというよりかは命を重さのあるものとしてとらえられない副作用だ。
フィジカルを欠いた言葉を使うことに慣れ親しんでいるので、あらゆるものが軽薄になって、重みを持たなくなる。言葉が実体を持ったものであると言うよりも、人間側の都合でいくらでも都合よく現実をねじ曲げられるものになる。言葉が先にあって、現実は言葉に従属する。言葉で表面を変えてしまえば、本質そのものが変質するものだと思っているから、いくらでも言葉を軽く扱える。
・理路の一貫性について。
2017年の総選挙の時に「自民党が圧勝したが、比例での投票数は約1億0609万人 のうちの約26,50万人でしかない。自民を支持している国民は四分の一に過ぎず、民意を正確に反映しているわけではない」という言説が野党側から語られた。
それから一年と四ヶ月ぐらいたった後に2019年の辺野古基地移設の是非を巡る沖縄県民投票が行われたのだが、そのときには基地容認派から「反対派が圧勝したが投票率は約52%であり、沖縄県民でも反対しているのは四割に過ぎない」という言葉が聞こえてきた。
どちらが正しいのかはここでは問題にしない。
沖縄の県民投票が民意だと主張するのなら、自民党の圧勝も民意だということにしないとつじつまが合わない。反対に自民党の圧勝が民意を正確に反映したものではないと主張するのなら、「基地移設反対派もたかが住人の四割程度で大多数ではない」というロジックを受け入れないといけない。
使っている言葉や論理展開、思考の筋道に一貫性がないから、自分の主張を押し通すために都合のいい言説を選んでいるように見えてしまう。
・アメリカンフットボール・スリーパーセル
日大アメリカンフットボール部の不祥事で問題なのは、選手が監督の命令に従って相手を怪我をさせたことではない。上司やコーチの命令を、良心や法律よりも優先してしまうようなメンタリティを持った人間が、日本社会の至るところに潜伏していることの方が大きな問題だと思う。たまたま今回はアメリカンフットボールだっただけだ。
人命に関わるような事件を起こさなくても、個人の良心よりも組織の都合と倫理を優先する。こういうタイプの人間がスリーパーセルとして日本社会に潜伏していることのほうが問題視されるべきではないのか。
この件は不祥事として明るみに出たけれども、じゃあこの選手が自分の良心に従って命令を拒否したらどうなっていたのだろう。「相手に怪我をさせるような危険なプレイはできません」と拒否しても、使えないやつとして組織から排除されて、日本代表候補からも除外されて、問題が表面化しないまま不利益を被っていたかも知れない。
そう考えると今回はたまたま表沙汰になっただけで、氷山の一角でしかないよね。