・現実ディズニーランド
ある特定の政治的な立ち位置を採用することに違和感を覚える。
昭和から変わっていない老朽化した左翼思想、戦前の価値観を現在に当てはめようとする懐古的な国家主義、文化の違いを無視して無理矢理日本に輸入されたリベラルや民主主義、「そんな難しいことなんて考えていても答えなんて出ないんだからさー、オリンピックや万博を楽しんで盛り上がろうよ!」という無気力・無関心。
そのいずれかに安住の地を見つけられれば、少しは楽になるのかも知れない。現状に疑問を抱かず、思考停止して、集団の話を乱さないような言動をする。どうせ考えても答えなんか出ないし、デモや投票に行っても何の意味もないから、何も考えないで楽しんだ方がいいよねー☆ いえーい! 日本サイコー! 感動をありがとう! 御国のために死にます!
もし情報テクノロジーとアルゴリズムとIT企業が人々の行動に影響を与えて、民主主義の基盤を切り崩していくような時代でなければ、そういう風に生きたかった。前例のない地球温暖化が破滅的な影響を地球に及ぼし、核兵器が生殺与奪を握っているような時代でなければ、鼻水を垂らして何も考えずに暮らせたはずだ。
答えが出ないまま宙吊りになって、これまで慣れ親しんでいた価値観や思想、宗教をそのまま当てはめるだけでは不十分になっている。それなのにそれ以外のオプションを持たないから、なじみ深い価値観をそのまま2020年以降の世界に当てはめようとする。その行為が思考停止に感じられるので、特定の政治的立ち位置や価値観に対して不信感を覚える。
民主主義、人権、戦前の父権的な社会やマルキシズム、キリスト教。これらが現代でもそこそこ使い物になるものだとしても、考えることを拒否して古い価値観にしがみついているだけなのだとしたら、それは間違っているのだと思う。
大阪万博のニュースが放送される度、テレビからは「こんにちは、こんにちは、世界の国から」という音楽が繰り返し流される。その度に時間が逆行していくようなめまいを覚える。「いまは201年だと思っていたけれども、実際にはまだ198年ぐらいじゃないのか?」と錯覚してしまうような、歪んだ時間の流れに巻き込まれる。
視野が狭くなっていって、喋れる言葉が減っていって、ゆっくりと思考停止していく。何かに対して自分の意見を述べることが、ばかばかしく感じられるようになっていく。
「みんなで同じ価値観を共有して、いっしょに楽しくもりあがっちゃおー☆ 破滅的な事態に直面してもそのときはそのとき! これからの日本はみんなで楽しめるイベントが目白押しだよ! リベラル思想にかぶれていつも不機嫌でいるよりも、時代の流れに身を委ねて大騒ぎしちゃおう!」……という空気が充満している。
不都合なもの、現実を直視せざるを得なくなるような情報は丁寧に取り除かれて、心地のいいだけの世界観が形作られる。ディズニーランドの中にいるみたいに、夢の王国の住人になる。そして最後には自分が非現実の中にいることも忘れて、そこが唯一の現実であるかのように思い込むようになる。
マスメディアが信頼できなくなったのは、このディズニーランドに荷担しているのを隠さなくなったからだ。「ここはディズニーランドだ!」と告げるのではなくて、着ぐるみをかぶって人々を夢の国に引きずり込もうとする。
誰かが意図を持って誰かを洗脳しているわけではない。複雑な現在が理解できなくなって、思考がショートしてしまった人間から夢の国の住人になる。「原子力と国防と民主主義とリベラルと地球温暖化の基本的な科学知識とそれらが経済に及ぼす影響と人権とテクノロジーとAIと移民問題と宗教と西洋社会とイスラム社会の相違と摩擦と第二次世界大戦での戦争責任とその他諸々に関して、能動的に情報を集めて、自分なりの意見を表明してください」といわれても容量オーバーだ。
それよりも聖書を信じることが大事だ。すべてコーランに答えが載っている。いやソビエト連邦時代が正しい。社会がおかしいのも外側から変な思想や価値観が入り込んできたからだ。昔は良かった。アーリア人最高! 戦前の日本社会は良かった! 日本を取り戻す! グレートアメリカアゲイン! ……と言い切ってしまった方が安心できる。
正しい現実認識ではなくて、秩序を与えてくれる物語を欲する。それが偽物でも、科学的に間違っていても、現代には適さない価値観だったとしても、それらの物語は私たちに安堵を与えてくれる。
そんなことを考えながら保守系の本を読んでいた。百田尚樹とかケント・ギルバートとか櫻井よしことか産経新聞とか、あのあたりだ。
百田尚樹の日本国紀は剽窃や歴史考証が批判されることが多いし、そこに書かれている歴史観を鵜呑みにしてはいけない。それでも、不安を和らげるための物語が欲しい、自分のアイデンティティを補強するための材料が欲しいという需要に応えているという点では、誰よりも時流を心得ている。学術的な検証に耐え得ないのだとしても、元放送作家としての嗅覚で、大衆が何を求めているのかを肌で感じ取っているように見える。
客観的に検証された歴史ではなくて、アイデンティティのよりどころになる物語が必要とされている。その点を無視して、荒唐無稽な嘘を信じるネトウヨというステレオタイプな解釈で終わらせるのは不十分だ。私たちは何者なのか、何をするべきなのか、何に自信を持てばいいのかという指針を必要としている人たちがいて、百田尚樹や保守論客はアイデンティティ喪失マーケットに「愛国」という商品を売り込んでいる。
リベラルと保守のどちらが正しいのかではなくて、保守は大きな物語マーケットの開拓に成功したし、リベラルはシェアを失ってしまった。共産主義への夢がソ連とともに潰えて、リベラル思想が現実感を失った空隙を突くようにして、愛国が商品化された。
何が起こるのかわからないというストレスフルな現実を直視するよりも、心の底から信じられる物語を欲する。そうしなければ不安に押しつぶされる。考えてもきりがないことなら、はじめから考えない方がいい。思考停止に導く言葉、疑問をかき消すような価値観を大量に摂取して、見たい現実だけを見る。
ディズニーランドは楽しいし、わかりやすい言葉で現実を歪めた物語は聞いていて気持ちがいいけれども、どこまでいってもそれはアミューズメントパークでしかない。でも遊園地は楽しいし、なにもかもを忘れてしまって騒ぎたいときだってある。それでも長いこと自己欺瞞の遊園地で暮らしていると、自分がいる場所が現実なのか、偽物のお城と着ぐるみに囲まれたディズニーランドなのかわからなくなる。
自分がディズニーランドの住人になったら、そのときには殴ってでも起こしてくれ。