・多数派になる義務と努力のこと。
多くの人が与党を支持しているというよりも、「多数派が善であり、少数派に属することはリスクが伴う。周囲から浮き上がらないように、自分も多数派の価値観を受け入れられるように努力しなければならない」という行動パターンで動いているのではないのか?
……という発想が思い浮かんだので、とくに論拠も客観的なデータもないまま「多数派になる義務と努力」についての文章を書いていく。話半分に読んでくれると助かる。
僕たちの社会には民主主義的な価値観は根付いていない。権利を主張したり、自分の良心を優先させるような教育は受けていない。むしろその逆で、主権者としての意思を自ら捨て去るような教育を受ける。
自分の意思は横に置いておいて、校則に従わなければならない。就職活動でのルールに従わなければならない。企業組織に従わなければならない。その延長線上に、自分の意思は横に置いて、多数派が選ぶ政治上の意思決定に従わなければならないという価値観が生まれる。
多数派から外れているのは悪いことで、努力してマジョリティの価値観に適応しなければならない。多数決で皆が選んだからのだから、自分がどう思うかは関係が無い。自分一人のわがままでは変えられるものでは内のだから、多数派を支持できるようにならなければならない。
この考えを内面化している人から見ると、権利を主張しているマイノリティは「多数派に合わせる努力を怠っているわがままな人間」に見えるのかもしれない。
「私たちは多数派に属するために自己を摩耗させ、集団に尽くしてきた。それなのに少数派の連中は権利を振りかざして、多数派に属するための努力から逃れようとしている。性的少数派だか障害者かどうかは知らないが、こいつらは少数派であるが故に、多数派に属するための労力を払わなくてもいいという特権を持っている。ずるい、卑怯だ。」
……というような思考をしているから、校則に従わなかったり、就職活動や企業組織での暗黙のルール、女性はハイヒールを履かなければならないと言った慣習、野党支持者やマイノリティへの配慮を求める人間たちが自分勝手に思える。
ある種類のひとたちにとって選挙は、与党か野党のどちらを支持するのかという問題ではなくて、自分が多数派に属するか否かを確かめる儀式なのだと思う。もし自分が多数派であれば安心して、少数派になれば多数派に属する努力をしなければならなくなる。
少数派で不利益を被るのは、多数派に属するための努力を怠ったからだ。得をしたかったら価値観を改めて、多数派に属せるように自分を変えなければならない。こういった倒錯した思考で生きている人が多いような印象を受ける。
けれども自分を捨てて多数派に合わせるのは、日本社会に適応するための効果的な処世術だと思う。少数派が多数派と同じ権利を持っていると信じられている社会では無くて、「少数派に留まって不利益を被るのは自己責任だ。それが嫌なら多数派に合わせる努力をしろ」と考えている人の方が多い。
この日本社会で権利を主張することは、多数派に属する義務と努力を放棄する反社会的な行動なのかもしれない。