思考するときに気をつけていること。
このエントリでは、言葉を使うときや思考するときに気をつけていることについての文章をまとめています。自分が行いがちな思考の癖を言語化して、意識的になることを目的として書かれています。
・言葉の意味だけで成り立つ世界。
「実は地球は球状では無くて平坦だ」という地球平坦論があるのだが、脳は地球が平坦か球なのかということを、言葉の意味としてしか認識していない。
従軍慰安婦は存在した・存在しない。あるいは南京大虐殺やホロコーストの是非も、ただの言葉として認識している。
自分は従軍慰安婦は存在していて、旧日本軍によって強制徴用されたと思っている。実際に確かめたわけでは無くて、みんなが言っているからそうなのだろうという雑な認識で「従軍慰安婦は存在した」と考えているに過ぎない。明確な根拠を持たない言葉だから、歴史修正主義者が「実は従軍慰安婦は存在しなかった」と言えば、するっと騙されてしまうかも知れない。その程度の不確かな歴史感覚しか持ち合わせていない。
ホロコーストや原爆で大量の人間が殺されたというのは、自分にとっては実体験に根ざしたものではなくて「ただの言葉」でしかない。ガス室に送られたユダヤ人の苦痛を想像することができるだけだ。ほとんどの歴史が、実体験に根ざした感覚を失ったと同時に物語と同じ水準になる。そうなると実体を持たないが故に簡単に操作できるようになる。
脳みそは現実認識を物語として認識するから、虚構と歴史的事実、捏造と妄想の区別ができない。歴史的な真実もや客観的な事実が存在するとしても、私たちの脳みそは物語と同じフォーマットでしか歴史を語れない。
個人的な判断基準としては「するっと理解できるような、つじつまが合っていて整合性の取れた歴史認識や世界観は警戒する」というものがある。理解可能なまでに歴史観や世界観がデフォルメされている可能性をまずは疑う。見通しのいい世界観や、善と悪に分けられる思考、あまりにもわかりやすい言説といったものは、歴史的事実を無視して言葉だけでつじつまを合わせているだけなのかも知れない。
ある種の世界観や歴史認識を疑うのは、それがあまりにも単純で分かりやすいからだ。資料がろくに残っていない過去を、自分が簡単に理解できるわけが無い。現代社会がどうなっているかだって不確かなのに、半世紀前、一世紀前、数世紀前のことがらについて確信を持って言えることは皆無だ。
客観的な歴史観を持っているようで、実は言葉の上でつじつまが合っている歴史のようなものを信じているだけなのかも知れない。
・点同士を線で繋ぐ思考の欠落について。
教職員が長時間・低賃金のブラック労働だというのが話題になり、一方で保育士も低賃金・重労働で人手が足りないと言われ、公務員の官製ワーキングプアや、医師不足からくる長時間労働が問題されたりする。
こどもの貧困に若年者層のブラック労働、ワーキングプア、就職氷河期世代に下流老人。あるいはサンマやウナギ、鮭の不漁だったり、耐震基準値の擬装や会計や日報の改ざんなどのニュースには事欠かないけれども、それらのニュースが点としてだけ扱われるのが不思議で仕方が無い。
それぞれが関係の無い別個の事件として扱われて、「どの業種もブラックできつい」「こどもの貧困だけじゃ無くて、全世代が困窮している」「うなぎだけではなくて水産資源全体が危機的な状態なのかも」「一企業の不祥事では無くて、日本社会の組織風土に問題があるのでは?」といった、点と点を線で繋ぐタイプの思考にならない。
そこまで熱心にニュースを追っているわけではないのだけど、個々のトピックを単品で消費しておしまいになる。全体の問題では無くて、「イレギュラーな事件がたまたま立て続けに起こっただけだ」という風に現実認識が矮小化される。
運悪く異常な猛暑が続いて、偶然にも数十年に一度の台風が直撃して、なぜか想定外の寒波に見舞われる。そう考えたくなるのは、「私たちの暮らしている社会はまだ正常で、たまたまイレギュラーな出来事が立て続けに起こっているだけに過ぎない」という幻想を保ち続けたいからなのかも知れない。
正常ではないことがわかったら、不具合を起こしている部分を特定して、正常な状態に復旧するコストが生まれる。その労力も費用も支払えないし、責任も負えない。だから老朽化した原子力発電所を騙し騙し動かすみたいにして、日本社会はまだ正常に動作しているということにする。
経年劣化のせいで様々な部分が不具合を起こしているけど、気のせいに違いない。壊れていないのだから、原因を究明する必要も無い。これはイレギュラーな出来事なのだから、放っておけばそのうちいつも通りに戻る。余計なことを考えるのは無駄だ……といった具合に、点同士を線で繋ぐ思考を抑圧してきた結果なのかも知れない。
・思考のパターン化に気をつける。
思考しているのではなくて、これまで身につけた思考や反応のパターンを、目の前の出来事にそのまま当てはめているだけに過ぎない。それなのに自分はちゃんと考えていると勘違いをしているときがある。
これまでに慣れ親しんだ視点、価値観、言葉などの定型化した思考のパターンを使って現実を理解したと錯覚する。
物事を一から考えるのではなくて、既存のパッケージを使って、思考を省力化する。丸暗記した定石をそのまま盤面に並べるみたいに、誰かの言葉を鵜呑みにしたり、どこかで覚えたフレーズを鸚鵡返しにする。
負荷のかからない方法で、もっともコストパフォーマンスのいい方法でこの世界を理解しようとする。あるいは思考に悪い癖がついて、間違った思考パターンが染みこんでしまうこともある。そうなると間違った思考のパターンが、自分らしい考えのように思えてしまう。
自分の頭でしっかり考えているつもりでも、馬鹿の一つ覚えみたいに特定の入力に対して同じ反応をし続けているだけのかも知れない。
それは言葉だけではなくて、感情にも当てはまる。
最初は不正に対して激しい怒りを抱いていたはずなのに、いつの間にかそれが惰性から発せられる言葉になる。以前と同じ感情を持って、以前と同じ言葉をしゃべっていると思っているけれども、一番最初に抱いていた荒々しい感情はすでに風化している。
感情が薄れると言葉は重さを失う。言葉や行動はすべて惰性になって、人に訴えかける力をなくす。
自分が怒りという感情を評価しないのは、それが持続性を持ち得ないものだからだ。感情に訴えかける言葉や運動は、人々を動かす原動力になる。その一方で時間が経てばすぐに揮発してしまう。何年も同じ感情を持ち続けるのは難しいから、最後には「かつては怒りだったものの残骸」になる。
・自閉的な正しさの殻
自分にとって正しい言説を喋ることで、閉じた正しさの殻に閉じこもっていくような気持ちになる。
たとえば「安倍政権を倒そう!」という主張があって、それが正しいものだと仮定する。でもその言葉が誰かに届くこともなく、他者の行動を変える力も持たず、自分たちが正しい側にいると再確認するためだけに語られる言葉になるとしたら、それは自閉的な正しさの殻に篭もっているだけになってしまう。
私はときおり「言葉の射程が短くなる」という表現を使う。インターネットで流通している言葉が力を失って、誰にも届かなくなってしまった。そんな感覚がある。
動物が毛繕いを互いにするように、同じ価値観を共有するコミュニティの中でだけ通じる符牒のような言葉ばかりを使っていると、言葉の射程は短くなる。異質な価値観を持った人間に届く言葉では無くなる。喋っている言葉が役に立たなくなったことに気がつかないまま、限られた範囲にしか届かない正しさを喋り続けるあいだに、自閉的な正しさに絡め取られる。
この文章は「そうだよな。やっぱりクソ左翼どもは独善的な正義ばかりを振り回していて、大衆の感覚とは乖離している。彼らこそ自閉的な正しさに固執している」とも「低能なネトウヨは質の悪いまとめサイトに囲い込まれて、閉鎖的になっている」とも読めるが、他者を一方的に裁くためのものでは無い。
正しいのか間違っているのかはどちらでもいい。定期的に立ち止まって、自分たちの喋っている言葉を確認する。 喋っている言説が自閉的な正しさに陥る危険性をたえず孕んでいることを認識しつつ、自らにとっての正しさを担う。
一見すると矛盾した態度かも知れないけれども、正しさを信じるのは盲信ではない。定期的にメンテナンスをしない車には危なっかしくて乗れないし、自らを疑わない正しさを鵜呑みにできるほどナイーブでは無い。
・他者を矮小化しない態度とキマイラ的現実。
あまり自分の尺度で他者を矮小化しないようにしたい。相手の劣っている部分だけをことさらクローズアップして、その一面だけが相手の本質だと思い込んでしまうような心の動きがある。
ある属性だけに着目して、拡大解釈して、あげつらって、愚かさや間違いだけを強調して、都合良く殴れるサンドバッグに貶める。それは人間的な営みでは無いのけれど、思考のリソースを節約するために、一面だけを見てそれが全体であるかのような錯覚をする。
そっちの方が楽でいいのだけど、目の前の人間を見ているのでは無くて、批判しやすいように戯画化された他者を頭の中にでっちあげているに過ぎない。
よく自分も「ネトウヨ」と十把一絡げにしてしまいがちなのだけど、都合のいい部分だけを切り取って、相手の本質を一方的に決めつけるのは好ましい思考の使い方では無い。
それは相手に配慮しているからではなくて、自分のためにはならないからだ。自分が理解できないものが目の前に現れると、それを理解可能な形に勝手に矮小化して、わかったような気になる。そうやってこの世界を、自分が理解できる形に切り詰める。この行為を繰り返していくと、「他人を馬鹿にして、何かをわかった気になっている馬鹿」になっていくような気がして背筋が冷たくなった。
「あいつらは馬鹿だ」と思うのは簡単だけれども、それは自分自身の正しさを必ずしも証明しない。おれも頭が悪い。狭い世界に閉じ込められて、偏った視野で思考しているのは自分のほうだ。自分自身の作り上げた情報環境に閉じ込めれているのは知っていても、その外側に何があるのかを知らない。
「わかった」のではなくて、わかった気分になっている。世界を客観的に観ているように錯覚していても、自分が理解しやすいように世界を歪めている。スマホの画面を通して世界を見つめると、重要なものが些細な情報になって、些細な出来事が世の中を左右するかのような重大事に思えたりする。
それは自分が作り上げた快適なフィルターバブルでしかなくて、その外側には、想像もできないような情報源や多面的なものの見方があるのかも知れない。でもフィルターバブルは自分自身の限界以上には広がらないから、その中に閉じ込められる。検索すればあらゆる情報にアクセスできるけれど、検索するための鍵が無い。
いま自分たちが見ている世界は、望んで作り出した幻影のようなものなのかも知れない。部分的な真実をつなぎ合わせて作られた、キマイラみたいな現実感の中で生きている。
はじめは他人が考えていることを勝手に決めつけるのはよくないという文章で終わるはずだったのだけど、いつの前にかフィルターバブルが生み出したキマイラ的現実の話になってしまったぞ……。
・他者にレッテルを貼らずに思考する訓練
一個人の側面でしかないものを、その人の本質であるかのように扱うのは好ましいことではない。たとえば日本国籍のAさん、男性/女性のBさん、保守/リベラルのCさん、原発廃炉派のDさん、改憲派のEさん、フェミニストのFさん……みたいな表記を用いると、個人の一側面でしかないものがその人の本質であるかのように錯覚しそうになる。
本来であれば、Aさん(日本国籍を持っている)、Bさん(性別が男性/女性である)、Cさん(保守的/リベラル的な価値観を支持している)……という風に、一個人を構成する側面(アスペクト)や属性として扱わないといけないものなのかも知れない。
僕たちが不毛な論争をするときに使っているレッテル――ここに書くのも嫌な種類の言葉なのだけど――ネトウヨやサヨク、フェミ、放射脳みたいな種類の言葉は、実在する個人とは全く関係の無い抽象的なイメージでしかない。
左翼という言葉から連想されるネガティブなイメージ、たとえば憲法9条を盲信して、現実の安全保障環境を無視して戦争反対を叫び、怒りに駆られて自民党を攻撃して、後先考えずに原発を廃炉にしようしているような、戯画化された左翼はいない。
それと同じように典型的なネトウヨも、アニメ絵の巨乳美少女を不倶戴天の敵と見なして攻撃し続けるフェミニストもいない。
ある個人の側面でしかない言動を、その人の全てであるかのように思い込んで、勝手に理解したような気持ちになる。それが仕方の無いことだとしても、頭の中で勝手に作り上げられたイメージを目の前の相手に覆い被せるような真似はなるべくしたくないなー、と自戒する。
インターネットなんて他人の断片的な側面しか見えないのだから、たまたま過激な発言をしているところに、運悪く出くわしてしまった……ぐらいに考えた方がいいのかも知れない。
「政治的な発言をして、そっち側の人だと思われたくない」と感じるのはもっともな反応だ。「数ある多面的な特徴のうちで、保守/リベラル的な価値観を持つ私」として扱われるのではなくて、抽象的なネトウヨ/クソサヨクとしてのレッテルが貼られてしまう。
自分も話をわかりやすくするために、ネトウヨとか左翼みたいな便利な言葉を使ってしまいがちなのだけど、それが極端にデフォルメされたものであることを忘れてしまう。そうなると、この世界には存在しない空想生物について論じているのと大して変わらなくなってしまう。
・使っている言葉をワンフレーズに圧縮しない態度。
文章を書く上で、自分の感じていることをスローガンにまで圧縮したくないという気持ちがある。100万人が共感できるワンフレーズのスローガンではなくて、その言葉からこぼれ落ちてしまったものを一つずつ集めるようにして、言葉を形作っていく。欠けているのはそのプロセスだ。
どの思想に賛成するのかという話ではなくて、どういう風に言葉を運用するのかという話だ。声を荒げて叫ぶスローガンの対極に位置する言葉。その都度自分が感じている感情に言葉をあてがっていくような、歯切れが悪くて、考えながらたどたどしく喋る言葉。言い切らない言葉、何万文字費やしてもゴールにたどり着かないような文章、明確な結論が見いだせないもの、明確な論理構成を持たないぼんやりとした感覚。すっきりしないまま、絶えず欲求不満と不完全燃焼の中でもが着続けるような言葉が、自分には必要だと思った。
その反対の言葉なら、いくらでも見つかる。切れ味のいい言葉で現実をわかりやすく切り分ける。短い言葉で、明確な論理で、すっきりとした結論が導き出せるような言葉が溢れているけれども、それが自分には胡散臭く聞こえる。現実を見ているのではなくて、言葉で理解できるように現実を歪めている。
僕が書く文章は長い割に、明確な結論やすっきりする見解やわかりやすい主張があるわけではない。そうではなくて、ただただ、途方に暮れることを目的としている。
言葉は簡単に現実を抽象化して、そこから肌触りや体温、声色、表情が失われていく。気をつけていないと顔の見えない言葉になって、言葉だけが一人歩きを始めてしまう。
・断定しない言葉遣いについて。
「AはBである!」と断定する言葉遣いよりも、ぐだぐだと「AはBとも言えるけれども、別の視点から見るとCにも考えられる。……というような気もするが、やっぱり……かも知れないし、でも……」という風に考えているほうが、自分にとってはしっくりとくる。単純化を絶えず迂回していくような言葉遣いだ。
断定する言葉に頼っていると、自分が喋った言葉に呪われるような気がする。
文章を書くときにはいつも、「……のような気がする。……と思う。……と感じる」という言葉を使って文章を書いていて、最後に消したり残したりする。思考の初期の段間で、「……は……である」と言い切ってしまうと、思考が言葉に引きずられる(ような気がする)。
「……は……である」と言い切れるようなものは滅多にないのだけれども、断定口調で語ると切れ味が良くなって力強く響く。その代償として、言葉で掬いきれなかったものがこぼれ落ちる。
話がわかりやすいと感じたときには、何かを不当な方法でそぎ落としている。
「おおむねAはBである。まあ例外はあるけれどもここでは話を複雑にしすぎるのも良くないので、あえて簡略化するね」が「AはBである」になって、最後には「AはB以外にあり得ない。例外はない。この言葉だけが真実である」という風に言葉が純化していく。
自分の皮膚感覚や五感よりも、言葉それ自体を絶対的なものとしてあがめるようになって、言葉が不完全な道具であることを忘れる……のかも知れない。
・〜のように見える。
「〜のように見える」というのは危険な兆候なのかもしれない。
安倍晋三は邪悪な極右の歴史修正主義者のように見えるとか、野党は日本の国益を損ねる売国奴集団のように見える。実際にはどうなのかは知らないけれども、自分にとってはこういう風に見える。そういう風に悪く見られるのは、お前が第一印象を改善する努力を怠っているからだ。〜のように見えるお前が悪い。
……というような考え方をするのは、思考の使い方としては袋小路に迷い込んでいる。
「〜のように見えるのが嫌なら、そう思われないように努力しろ」という価値観が当たり前になってしまったら、物事を多面的に見る必要は無くなってしまうし、印象操作だけが思考を形作るようになる。
「〜のように見える」ことに重きを置く世界観は望ましいものではない。魔女狩りの標的になるのは、魔女のように見えるお前が悪いと難癖をつけられて処刑される時代と一緒だ。
「〜のように見える」というのは第一印象だから仕方がないけれども、そう見えるからと言って真実だとは限らない。地球が平坦に思えて、大地が不動のように思える。だからといって天動説が正しいわけではない。錯視図形には違う長さに見える線が実際には同じ長さだったり、違う明るさに見える色が同じだという絵がある。
〜のように見える。しかし、実際には違うかもしれないし、同じなのかも知れない。その「しかし」の部分が理性や知性のように私には見える。