濾過された現実を観るということ。


・メディアの印象過多について

テレビで白血病の闘病記を見ていたのだが、チャンネルを変えたくなってしまった。写真や映像で見た場合の印象が鮮烈すぎて、闘病の苦しさを受け止められなかった。これが文章だったら印象が和らぐのだが、映像として見るのは刺激が強い。東日本大震災の津波映像も、テロや銃撃事件の現場で取られた映像も、児童虐待のニュースも、生々しすぎて神経が耐えられない。
世界中の悲惨なことを映像で報道できるようになった結果、それがあまりにも印象過多になる。その結果、ネガティブな世界観を自然と遠ざけている。
文字情報だけなら「世界にはこんな酷いことがあるんだね」で済ませられることが、ニュースになると精神が削り取られて憂鬱になる。
映像で現実の悲惨さを伝えられるようになっても、自分たちの精神は残虐さに耐えられない。報道のために表現をマイルドにせざるを得ないのだが、そのことで逆に実態から遠ざかっていく。

・死体のないクリーンな世界。

私たちが災害や戦争を語るときには、死体を視界の外に追いやっている。
震災の時にも水死体を目にすることは稀で、海外メディアの特集でようやく津波で無くなった被害者が納棺される写真を見たものだった。
戦争でも、廃墟や焼け野原になった大地、キノコ雲が描写されることがあっても、死体を直接的に描写することは珍しい。腐乱して蠅がたかっているような死体だとか、処刑された人間の頭部であるとか、目を覆いたくなるような映像はこちら側から探していかないと見つからない。
精神的にダメージを受けない、クリーンで優しい、毒気を抜かれた災害や戦争だのの映像を見せられている間に、死体のない東日本大震災や第二次世界大戦のイメージが頭の中に作り上げられていく。
メディアに表示される数字だけは増えるが、死んだ人間を目の当たりにしたことは無い。死を認識できないままに、人が死んでいく。無意識の間に死者たちを視界の外に追いやって、安全でクリーンなものだけをみて心を痛めている。
戦争報道やニュースは18禁バージョンを作るべきだといつも思っている。朝やゴールデンタイムは表現がマイルドになった全年齢向けニュースで、深夜のニュースになるとモザイクが掛かっていないままの死体が映し出される。たまたま目に入ってくるのでは無くて、「悲惨なものを自分の意思で見るのだ」という決意を持って、世の中の邪悪さを受け止めなければならない。視聴中には人間が信じられなくなったり、うつ気味になったり、吐いたりする。
もちろんそんな映像が見たいわけではないが、表現が濾過されていることを意識しないと、すぐにメディアに映し出される全年齢向けの映像がすべてであるかのように錯覚してしまう。