・「言葉のフェアネス」は死んだ。


リベラルな言説は死んだのだと思っている。ここでいうリベラルというのは特定の政治的主張を表すのではなくて、「客観的な事実を踏まえて、論理立てて言説を組み立てる」という思考プロセスを指す。
リベラルではなくて、「フェアな精神で言葉を扱う姿勢」といった方がいいかも知れない。スポーツでは相手は悪質な反則をしないだろうという前提を共有する。それはパブリックな場でのコミュニケーション同じで、「相手は事実に基づいて、論理的な言葉を使って私を説得しようとしている。互いを欺かないというフェアネスの精神を了承している」という紳士協定の上に成り立っている。
もし相手が事実を誤認しているときは、悪意からでは無くて、無知だったり誤解しているだけだ。意味が不明瞭なことがあっても、それは自分の理解力か相手の表現力に問題があって、伝わるべきことが伝わらなくなっているに過ぎない。
客観的な事実に立ち返り、そこから一歩ずつ論理を積み立てていけば、時間はかかるかも知れないが妥協点は見いだせるはずだ……という価値観が「言葉のフェアネス」だ。
言葉のフェアネスは、相手が倫理的に振る舞うことを前提にしたものなので、「咎められないのならいくらでも反則をしても構わない」というアンフェアな言動を想定していない。

反則にならない範囲で詭弁を駆使したり、議論に勝つためだけに不誠実な手段に訴えること、デマやフェイクを垂れ流し、確信犯的に事実を誤認して、自分にとって好ましい目的を達成するためにファウルまがいの言説を行使する。
言葉のフェアネスに基づいて対話の基盤を維持するのでは無くて、力関係や数の暴力によって少数派の意見を押し殺す。そういった性質のものにコミュニケーションが変質してしまった。
安保法制や憲法の解釈改憲、政府の不祥事に対して、どうしてリベラル側の言説がそこまで効力を持たなかったのかを考えていた。「論理的に整合性のある言説を用いて、互いを説得するというルール」から、「ただ声の大きな方が勝つルール」に変わったような印象を個人的には感じるのだけど、いまだにリベラル側は「言葉のフェアネス」に従って喋っている。
ファウルに対してフェアネスで対抗すればするほど、リベラルは消耗していく。リベラルは古いルールに縛られているのに、相手は勝つために反則を駆使してくる。でもリベラル側が言葉のフェアネスを捨てて反則に手を染めれば、そのときには完全にリベラルでは無くなってしまう。

・声の大きなやつが勝つ時代。
個人的には、2020年代は「言葉のフェアネス」が死んだ時代になると思っている。その一方で、これまでに人類が克服してきたと思っていた迷信じみた古い価値観が蘇る。部族主義や猿山のボスと子分のような力関係、プリミティブな感情から生まれる偏見や差別意識、歴史修正主義、陰謀論、全体主義――何十年、何世紀も前に死に絶えたはずの迷信じみた価値観が、再び力を取り戻す。
スマートフォンやSNSの普及によって、非理性的な言説もネット上で生き延びられるようになった。同じ考えを抱いた者同士がオンライン上でつながって、無視できない勢力になる。言葉のフェアネスを無視する態度は、これらの言説と相性が良い。それらの言説が間違っているかどうかは関係が無い。数の多さにものを言わせて、反論する人間の口を閉ざすような戦略を採用すればいい。
リベラルやオールドメディアは言葉のフェアネスを重視しすぎるあまりに、ファクトチェックをしたり、客観的な正しさにこだわって、いたずらに消耗して自滅していく。それに対して、言葉のフェアネスを無視する人たちは、低コストでデマやフェイクを次々と拡散させていけばいい。
同じ規模で戦う限り、言葉のフェアネスを重視する側には勝ち目が無くなる。

民主主義的なアプローチは意味を失って、声の大きい側が勝つ時代になる。
そのルールの下では、相手の言葉に耳を傾けて相互理解を試みるのは馬鹿らしくなる。声の大きい側が勝つというルールでは、両手で耳を塞いで、自分の喋りたい言葉だけを叫び続けるのが最適な戦略になるからだ。
ついうっかり相手の言い分に耳を傾けて説得されてしまえば、それは失点にカウントされる。そうならないためには、相手の言い分に耳を傾けずに、自分の言いたいことだけを押しつければいい。対話をしなければ、論破されることはない。
悲観的な文章だし、コミュニケーションに対して失意を抱いている。「話し合えばわかる」と無邪気に信じることができなくなってしまった。それでもこういう文章を書くのは、まだ言葉を信頼していたいからかも知れない。
文章が読まれるためには、「たとえいまの自分には理解しきれなくても、この人には伝えたいことがあるのだろう」という信頼を必要とする。それは読者の善意を前借りしているに等しい。
言葉のフェアネスに反するのは、耳を傾けてくれた相手の善意を丸ごと踏み倒すことだ。「どうせおまえ、適当なことを言って人を煙に巻こうとしているんだろ。もう二度とおまえの言葉なんか見聞きするかよ」と思われてしまったら、言葉が届かなくなる。