・言葉が脳に刺さる感覚のこと。


スマートフォンが使えない体質になってしまった。
スマホだけではなくて、ソーシャルメディアやSNS全般に対して、生理的かつ論理的な嫌悪感を抱いている。その最も大きな要因が、言葉の距離が近すぎることだ。スマートフォンのスクリーンに映し出される言葉が、脳に直接刺さるような感覚になる。
加工されていない生のままの人間の言葉を、自分は上手に処理できない。切れ端になった言葉の断片、誰が喋ったのかもわからない出処不明の言葉、顔の見えない短文テキスト、こういったものを日常的に読み聞きすることに強いストレスを感じている。
私がこれまでにネット上で読み聞きしていた言葉は、多かれ少なかれ個体識別ができた。ホームページやブログなどの、ある特定の場所で、ある特定の個人が発信している言葉だった。画面の向こう側には何かしらの価値観を持った他者がいて、その人が文章を書いている。それが自分にとって大切なことだった。
どのようなパーソナリティーを持った人間が、どういう文脈でその言葉を発するのか。言葉それ自体の正しさよりも、これまでにその人がどのような言葉を使ってきたのか、何を絶賛し、何に怒っているのか。そういった些細な言葉の積み重ねが、文章に重さを与えていた。
ソーシャルメディアが普及してから、連続したパーソナリティに触れられる機会が極端に減ってしまった。断片になった言葉には指紋が無く、顔が見えない。パーソナリティから切り離された言葉が、亡霊のようにインターネットに浮遊しているように感じられることが多くなった。

文章から指紋が無くなる以外にも、言葉の彩度が高くなった。
短い文字数で言葉を伝えようとすると、どうしても強い表現や荒い切り口、過度な一般化によって文章が歪められてしまう。短くて、表現が過激な言葉は、ぎらついた原色のようにとげとげしくて、脳の奥深い場所に直接刺さるような不快感がある。
私は聴覚過敏を持っていて、人の声が鼓膜の奥深くに刺さる。ノイズキャンセリング機能付きのイヤフォンや、キングジムのデジタル耳せんが無いと、雑音の中でストレスがかかる。
感覚としてはこの聴覚過敏に近い。スマートフォンのスクリーンと、自分の脳味噌の間に緩衝材が無くて、甲高い音のような言葉が脳に直接入り込んでくる。
それらの彩度の高い言葉は、避ける暇も与えられずにスクリーンに映し出される。ページをめくる、新聞を手に取る、テレビのスイッチを入れる……といった行為を取る場合には、そのあとにどのような種類の言葉が待ち構えているのか、だいたいは予想できる。予想できなくても、悪言と罵倒にまみれた情報は表示されない。
ネットの場合だと、言葉が表示されるまでの時間や距離感がまったく存在しない。不快な言葉を受け取るときに、心の準備をしたり、言葉の衝撃を和らげることが難しい。これが言葉が脳に刺さる感覚の原因なのかもしれない。
そのような理由で、言葉との距離感をマネジメントするのが難しくなってしまった。人とコミュニケーションを完全に断絶したいわけではないが、どうしても言葉の刺激が強すぎて精神的に摩耗してしまう。
私がときどきSNSのアカウントを削除して逃亡するのは、人間関係が煩わしくなったからでもなく、皆が嫌いになったわけでもない。ただ脳に刺さる言葉が辛くなってしまっただけだった。
使っているテクノロジーを減らして、コミュニケーションの手段を絞った方がいい。なるべく負担がかからない方法で他者とつながる。ノイズや不愉快な言説を避けて、脳が情報を処理する負担を少なくする。その方全体的な満足感が高くなるはずだ。