・意味の無い言葉のニヒリズム。


「選挙権を行使しよう!」とか「一人一人の国民が自覚を持って民主主義を支えなければならない」と言われても、それらの言葉には何の意味も無い。もしもそれらの言葉に意味があって、十分な射程範囲を持って人を動かすエネルギーを持っているのなら、もっとましな世界になっているはずだ。
言っていることは正しいのだけれども、何の意味も持たない、誰にも届かない。そんな言葉に囲まれているあいだに不感症になってしまった。意味の無い言葉を聞いて、自分も意味の無い言葉を喋る。それでいて、自分が喋っていることには意味があるのだと錯覚している。
そのことに対して虚無感を覚えるようになって久しい。

リベラル左派陣営やマスメディアに対して失意を抱いているのは、主張していることの是非でも、分裂と合体を繰り返しているせいではなくて、言葉に対する感性が異常に低いからだ。
テレビも新聞もインターネットも、ただ沈黙と空白を埋める梱包材みたいな言葉に満ちあふれている。主張していることは正しいし、筋が通っている文章を読むたびに、心の奥底から「で、それに何の意味があるの?」と疑問が湧き上がってくる。
言葉が手垢にまみれて、質量が失われて、意味もわからずに唱える念仏のようになる。七〇年前には平和という言葉にも切迫性や重みがあったと思うのだけれども、いつの間にかただの言葉になってしまった。
良識のある人間と中途半端な善人が、なんとなくそれっぽいだけの意味の無い言葉を繰り返している。予定調和で、何の刺激も無く、死んだ言葉が腐臭を放っているのだけれども、その臭いに慣れきっている。
そのことを憎悪するよりも前に、失意と虚無感を覚えている。
自分たちが使っている言葉は、根源的には無意味で何の効力も持っていないことへの自覚が足りない。意味が無いとうすうす勘付いていながら、意識をそらして意味があるかのように振る舞う。そうやって自分を騙している間に、喋っていることに価値があるかのように錯覚する。

絶望的な状況において、希望があるかのように振る舞うことが適切だとは思わない。紛い物の楽観で現実を取り繕ってもろくなことにはならないのだが、それがポジティブシンキングとして賞賛されるような価値観の中で生きている。
前にも言ったことだが、私たちに必要なものは適切に絶望する技術ではないのか? 八方塞がりになって、あらゆる手段が潰えて、すべての望みが失われた後に、その現実を淡々と受け入れて絶望する作法が欠けている。
わずかな可能性に縋ったり、現実を無視して「日本サッカーは絶対に勝てる!」とか「安倍政権を絶対に倒す!」と言ったり、絶対国防圏を守ろうとするのは、思想が違っていても同じ心の働きだと思う。
「そもそも福島原発の廃炉作業や汚染水処理自体が不可能なんじゃないか?」とか「物量的にアメリカに勝てないんじゃね?」といった思考が抑圧されて、臭いものに蓋をするという行動パターンを性懲りも無く繰り返しているように見えるのだけれども、それに言及すること自体がタブーになる。
悲観的になったり、後ろ向きやネガティブな姿勢が好ましくないものとして排除されて、「最後まで諦めない」「希望を捨てない」みたいなきらきらした言葉で現実が隠蔽される。
自己欺瞞に陥ったまま破滅するのはおまえの勝手だが、贋物の希望を俺に押しつけないでくれ。まずはそれからだ。