囲碁日記
宇宙流序盤構想
宇宙流序盤構想と武宮の白番を買ってしまった。
武宮正樹の石運びはバランスが取れていて肌にしっくりくる感覚がある。セオリー通りの打ち方だと石が低い場所に圧迫されて窮屈に感じられるが、宇宙流と自然流には開放感があって並べていて気持ちがいい。地面に足がつかなくて不安になる一方で、石が上へ上へと向かっていく浮遊感と柔軟性がある。
互先も置き碁も「盤上のバランスを取る」ことで一貫していて、地を取るよりも先に相手の模様が巨大になるのを制限したり、勢力をぼかしすことを優先している(ように思える)。手を付けられなくなって一か八かの戦いを選ばざるを得なくなる前に、災いの芽を丁寧に摘み取っている。自分が打つときには反対に、勢いが殺されないような着手を選ぶ。
武宮の白番は最初のうちは地を取りに行かなくて、そんなにゆっくりしていて大丈夫なのかと不安になる。自分だったらある程度の確定地が欲しいと思ってしまうような局面で、盤上のバランスを整える手にリソースを割く。勢いを殺して、模様を制限する。形勢を細かくしていけば、そのぶんだけ白にも好機が回ってくる。
囲碁は未だに意味がよくわかっていないのだが、絵画を鑑賞しているときのようなバランスを感じるようになった。構図が安定している、色彩設計が調和している、デザインに余分な物がない、光と影の対比がはっきりしているといった事柄を美術鑑賞しているときに感じる。碁盤を見ているときには絵を見るときと同じ回路が働いて、黒と白が混じり合ってバランスが形作られていくのが綺麗だと思うようになった。
宇宙流序盤構想と武宮の白番でやっていることは原理的には同一で、均衡を保つ、釣り合いを取る、相手に決定的な勢いを与えない手を選ぶ、イーブンに持って行く……といったバランス感覚に裏打ちされた石運びに魅了されている。
うまく言語化できなくて恐縮だが、すごいと言うよりも美しいと言った方が適している。
決定版!囲碁が急速に上達する苑田理論
苑田勇一の棋譜を並べたかったので、『決定版!囲碁が急速に上達する苑田理論』を読んでいた。「一週間で痩せる!」みたいなインスタントで軽薄なタイトルに思えるが、苑田勇一の実戦譜を題材にして考え方を学んでいく本だ。
大模様を作っても直接的に地を囲うのではなくて、むしろこれまでに手をかけて作ってきた模様を破らせて、別のところで実利を稼ぐ。魔法みたいな棋風だ。
地を作るために模様を張るのではなくて、相手と取引をするための交渉材料として活用している。模様を破らせる代わりに実利を取ったり、厚みに変換して別の箇所を攻める。攻めるにしても、弱い石を直接攻めるのではなくて反対方向の別の石にアプローチすることで、間接的に石の強弱関係をより強調する。
「意識の虚を突いて逆サイドに走る」感じがよい。
苑田勇一の棋書を読むことで急速に上達するわけではないが、考え方には幅が生まれる。これまでは「縄張りに入ってきた奴は敵!皆殺し!」という台詞が似合うような蛮族スタイルで打っていたのだが、「生きている石からは離れる」、「石の効率に気を配る。相手の石は非効率な形に誘導することでアドバンテージを得る」、「石の強弱に敏感になる」といった方針に基づいて戦略を立てられるようになり、戦い方にバリエーションが生まれる。貪欲に地を貪る野蛮な戦いではなくて、石の効率を最大限に発揮した方が勝つ文明的な遊戯になる。まるでモノリスに触れたサルが道具の使い方を覚えたみたいな進化だ。
これで囲碁知能指数が格段に上昇し、縄張りに入ってきた敵を効率的に皆殺しにできる。
それと、「小目のツケヒキ定石からオオゲイマに飛ぶ、定まった名前のないあの定石」の活用方法が比較的細かく触れられているので、宇宙っ子や勢力大好きっ子は要チェックだ。
「haveの思想」と、手放すこと。
囲碁を打っていると言うよりも、実践型の座禅をしているという感覚が近い。碁盤は逆説に支配されていて、最初から地を稼ごうと思ってはいけないし、あからさまな方法で攻撃したり、守ったりすると敗勢を招く。攻めるときには逆側に向かったり、地を守ろうと思わずに攻めた方が主導権を握れたり、定石に囚われずに自分の嗅覚を頼りにして打った方がいい結果に結びついたりする。こういった様々な逆説に支配されているので、知識を積み重ねていくよりも、禅や東洋思想的なアプローチをしていった方がいいのではないのかと個人的には思っている。不得貪勝(貪って勝とうとしてはいけない)。勝敗だけではなくて知識なども貪りの対象になる。
西洋思想は「have」で、東洋思想は「手放すこと」だと考えている。
手に入れる、所有する、自分の物にする。私は土地を持つ、知識を手に入れる。私は権利をもつ、私は様々なものを所有している……という形式で語られる思考のあり方が「haveの思想」である。その対極となるのが「手放す」で、haveがものをつかむ動きなら、手放すことは両手を開く。握りしめるのではなくて、手を緩める。捨てたり、少なくする。
知識を増やせば強くなるというのもhaveの思想に属している。それが間違っているわけではなくて、増やしていくのとは別の思考のあり方があるのではないか?ということについて考えている。手に入れるという思考に馴染んでいては、貪るのをやめるのは難しい。
「ほへー」
囲碁がさっぱりわからない。
プロの棋譜鑑賞をしていると「ほへー」以外の感想が浮かんでこない。自分だったら早々に地として確定したくなる模様を敵に突き破らせて、別の場所で実利を毟り取る。なんてことはない守っただけの手に見えて、局面を紛糾させる動き出しを未然に防いでいる。地にならない手ばかりを打っていて不安になるのだが、最後にはしっかりと勝っている。ちゃんと地合いのバランスは保たれていて、勢力に偏っているわけではない。解説付きではあるが、何をやっているのかわからなかった棋譜が何となくわかってきたり、ときには「ほへー」と感心することも多くなった。
何かを理解するためには相応の教養や知識が必要で、それがないとただ石を置いているようにしか見えない。「ほへー」というのは自分が思ってもみなかった角度や視点から殴られて感心したときに口からこぼれてくる感嘆符で、いかにして多くの「ほへー」に触れられる感性を磨くと楽しめるものが増えるに違いない。将棋にしても「セオリーだとここと4五銀で寄せていくのが第一勘だけど、一見すると初心者みたいな俗筋の3三桂を打って、相手の攻め筋を緩和させつつやんわりと王を包むように寄せているとかすごいよね」とかわかるようになると楽しいと思う。上記の文章は想像でてきとうにでっちあげたものだ。
言語化に適していないものを言葉で語るのは難しい。それよりも絵のアナロジーで語った方が伝えやすいかもしれない。ロジック偏重の社会で生きてるので、言葉にならないもの、感覚で捉えた方が適しているものを軽視しがちになる。琴棋書画はどれもが言葉ではなくて、音楽の秩序、色彩やイメージの秩序に通じるものがある。非言語的な活動が重要視されていたのは示唆的ですよ。
こうやって言葉を使って、言葉にならないものの重要性を説くのは矛盾しているかもしれないけれども、私たちは言葉にならないものを価値のないものとしてそぎ落としてきた傾向があるのではないのか。
囲碁だと実利のほかに、厚みという得体の知れない概念を扱う。すぐには目に見える時にはならないけれども、後の戦いで重要な役割を果たしたり、厚み同士がつながって巨大な地になる可能性もある。不確定要素のマネジメントをしなければならないのだけど、わからないからといって極端に実利に偏った囲碁を打つと、巨大な厚みを敵に回すことになる。
すぐに利益が出ないけれども重要なこと。言葉にならないけれども確かにそこにあるものを重視する。少なくとも、言語か可能なものと不可能なものの間のバランスをとるのが、東洋思想ではないのか?ということを考えている。ロゴスの世界に偏りすぎない。
「私は○○がしたい」という主体性の話
囲碁を打ち始めたときには自由すぎて、どこに打ったらいいのかわからなくなる。上級者は「どのように打ってもいい」と言うけれども、それは無責任な話だ。
よく「どのように打つのが正解でしょうか?」という布石問題があるけれども、「無数にある選択肢の中から正しい答えを選ばなければならない」という考え方は有害だと思っている。
「間違っていても、自分は何をしたいのか?」をまずは明確にする。「私は○○がしたい」という方針を立てて、それを実現するためにはどの技術を使うのが適切なのかを考える。自陣を拡張したいのか、敵を妨害したいのか。大きく構えてから、侵入した敵を攻めて主導権を握りたいのか。石が分断されると劣勢になるからつながることを優先したいのか、それよりも先に弱い石を強化したい……といった、無数の「私は○○がしたい」を見つける。
それらのアイデアを実現するために知識や技術を習得するのが本来の手順だと思うのだが、先に技術だけを教わるのは「私は○○がしたい」という主体性が育つのを妨げていると思う。
仮に「地が欲しい」という方針自体が戦略的に間違っていても、「自分がしたいことを手持ちの技術を使って実現した」のであれば責められることではない。正しい着手を選んでも、判断基準を自分以外の誰かに委ねていると苦しくなる。正解がどこかにあって、弱い自分が選ぶことは間違いなのだから、プロや有段者の言っていることに黙って従った方が効率的だ。そう考えるのは正しいのかも知れないけれども、「私は○○がしたい」という主体性が緩やかに死んでいく。
さっきの「地が欲しい」という方針でも、最初はただ地を取るだけだったものが、成長とともに「相手の弱い石を攻めながら、自然に地を作っていきたい」といった高度な考え方に変化していく。
囲碁や将棋の棋書は売る方も読む方も受験勉強を意識しているように感じる。マークシートの選択問題から答えを選ぶような布石問題だとか、英単語を延々と暗記するようにして定石を覚えるといった受験勉強的アプローチは、囲碁を覚える上では不適切に思える。
それよりも「こういう絵を描きたい、こんなプログラムを組みたい」というコンセプトを実現するためには、どんな技術が必要なのかを逆算して考えるような手順の方が本道だと思う。試験で効率的に高得点を取るための方法論と、作品を作るための手段には大きな違いがあって、前者は「あなたは○○をしなければならない」に、後者は「私は○○がしたい」にそれぞれ属する。
「私は○○がしたい」ではなくて、「あなたは○○をしなければならない。自分のしたいことをするのはそのあとだ」のほうが強い文化圏にいるので、意識的に「私は○○がしたい」のほうを育てた方がよい。でも気を抜くとすぐに「したい」ではなくて「しなければならない」の思考に戻っている自分の姿に気がつく。
筋トレとか詰碁とか。
・『三段の壁を破る基本手筋100と、囲碁・強くなる実戦詰碁100』
三段の壁を破る基本手筋100と、囲碁・強くなる実戦詰碁100を繰り返し解いている。ほとんど答えを暗記しているけど、変化を含めた頭の中でのシミュレーションはできていない。実戦だと読み切れていないので、「この辺が急所っぽいから攻める・守る」という雑な打ち方をしているのが勝率を下げている要因なので、読みの精度を高めるという方向性で訓練する。
高段者だと100%殺せる場面でも、自分の場合は確率デスになる。布石である程度リードしても、中盤戦以降で攻めきれなかったり、乱戦になって逆転されるケースが多い。
ただ読みを鍛えるのは、知識を蓄積するのと違って時間が掛かる分野かも知れないので、筋肉を鍛えるつもりでじっくりとやった方がいいと思う。
筋肉と言えば基本の筋肉トレーニングが続いている。
月、木に腕立て伏せ 20回×3セット、腹筋 20回×3セット
火、金にスクワット 20回×3セット、タオルを使ったラットプル 15回×3セット
残りの日は休むか、できなかった日の分を取り戻すための予備。
……というメニューをやっている。数をこなすのでは無くて、負荷をかけて筋肉をいじめたおすのが目的である。スクワットは足が生まれたての子鹿みたいにぷるぷるするまでやる。そのあとにプロテインを飲む。
いまのところは挫折すること無く続いているが、「やる気がまったく無い日でも1セットぐらいはこなせる」程度の量がいいのかも知れない。
最初は「こんな基本の筋トレではトレーニング量が足りない」と思っていたけれども、取り組むモチベーションが高いときにできる量を基準にしてはいけない。やる気がゼロで、筋トレするのが面倒くさい、でもせめて1セットぐらいはやるか……、1セットやり終えたし、もう10回ぐらいできるかも……という感じでだらだらと継続できている。
DietPiを使ってRaspberryPi Zero Wで囲碁専用マシンを作った。
囲碁をするためにデスクトップPCを起動して、4コアのCPUに電源を供給するのも洗練されているとは言いがたいので、シングルボードコンピュータを囲碁専用マシンにしている。しかしこれまで愛用していたRaspberryPi 3B+を使っていたのだが不慮の事故で壊してしまった。その代替として、引き出しで眠っているRaspberryPi Zero Wに白羽の矢に立った。
いぜんにもRaspberryPi Zero WにはRaspbian Liteをインストールしていたが、動作がもっさりしているので使い道がない。駄目元でDietPiという超軽量OSをインストールしたところ、思ったよりもきびきびと動作するようになった。
余談だが、RaspberryPi 4Bは未だにMicroSDが足を引っ張っているように感じられるのであまり食指が動かない。AMDがIntenのAtomと競合する低電力CPUを出して、Raspiがそれを採用して、ストレージをSSDにしたシングルボードコンピュータを開発して欲しい。Zen2アーキテクチャの7mmプロセスで、4コアあるやつ。
『簡明二、三子局の布石(武宮正樹)』を読む。
この本に書かれていることは部分的な好手や置き碁専用の打ち方ではない。「本手を打って白の策動を潰す」「碁形を決めて局面を単純化する」「常に盤面全体の石のバランスに気を配る」といった応用の利く考え方に焦点が当てられている。
初心者向けの「こういう風に打っていれば何も考えなくても優勢になるよ」といった置き碁本とは異なって、置き碁を題材にして「考え方の定石」を教授するような作りになっている。
手筋や定石がミクロな視点での最適解なら、考え方の定石はマクロの話になる。部分的に正しい打ち方を覚えても、それを正しく運用する土台がないとちぐはぐになってしまう。マクロの視点が正しくても、それを支えるテクニックがないと戦略を実現できない。
『簡明』と銘打っているのだが、難しいと感じるのはまだマクロの視点で考えることになれていないからだと思う。
『依田ノート』
最初買ったときには読みにくいと感じて長らく本棚の肥やしになっていたのだが、星打ちを愛用するようになってから本書の評価が激変した。勢力を主体にした星打ちにとって、すぐに実戦投入できる知識が高い密度で詰め込まれている。
レイアウトの見難さと、連載記事なので変化のバリエーション解説が乏しいことが欠点だが、引き出しを増やすという意味では知っておいて損はない。
武宮正樹などの星の布石を得意とする棋風をベースにして、それに依田ノートのテクニックで肉付けをしていくような使い方が適しているように思う。
『石の形集中講義』
評価が高かったので初級者の頃に買った。愚形を避けて筋よく打てるようになるためのもので、我流の癖が染み込まないように早い段階から石の形には気を配ったほうがよい。一度、身についてしまった手癖を直すのは、スポーツ選手がフォームを矯正する程度にはめんどいくさいことだ。
石の形を綺麗に保つのは大切だとは言っても、実戦ではついつい空き三角を作ってしまったり、サカレ形で石の効率を悪くしてしまうことも多い。
『読みの地平線』
一言でこの本を要約すると「弱さの肯定」だと思う。アマチュアが上達しても「こんなレベルで満足していてはいけない」と思って、高度な詰碁を解いたり、布石や手筋の勉強をする。それで実力がついても満足できなくて、さらなる訓練に励む。「したいこと」よりも「しなければならないこと、覚えなければならないこと」が際限無しに膨らんでいって、楽しいと感じるよりも苦しさの方が大きくなる。
それが向上心から生まれたものなのか、強さを貪っているだけなのか、自尊心や優越感を満たす道具として囲碁を利用しているのかわからなくなる。
で、エイメンは「どうしてそんなに苦しんでまで、強くなりたいの?」と問う。プロの提示した正しい手ではなくて、手持ちの知識と読み、価値観で等身大の囲碁を形作っていく。それは間違いだらけで、自分よりも強い人から見たら酷いものかも知れないけれども、それでもエイメンは「自分の弱さや限界と折り合うこと」を提案する。
適切な向上心と、適切な努力と、適切な判断と、適切に自分の弱さを勘定に入れることから生み出される、弱さを肯定する強さ。人によっては向上心の欠如や、弱さに甘えたり、怠惰に映るかも知れない。
自分の好きな言葉に「もし欠点のないのだとしたら、私たちは人間ではなくて神様になってしまう」というフレーズがある。でも弱さや欠点を受け容れるのではなくて、それを埋めるための強さを欲したり、目を背けたりする。
本書は二〇〇五年に発刊されたものだが、「量子コンピューターが実用化されれば、私たちの打つ手は二次方程式の解ほどの価値もないかも知れません。観戦者がパソコンに示される正解を横目に、私たち対局者の下手さをあざ笑う悪夢は、もはやSFではないのです」という予言めいた言葉が書かれている。
AIプログラムがトッププロを打ち負かしたり、将棋番組でAIの評価値が表示される現在においては、それぞれが自分自身のオリジナルな弱さと向き合っていかなければならないのではと思う。
苑田勇一流 基本戦略
苑田勇一の打っていい場所・悪い場所
苑田勇一の大模様はこうして勝て
囲碁は地を囲うゲームであると同時に、石の効率を追求するものである。自分の石は効率のいい形を心がけ、相手の石は固めたり密集させたり愚形を強要するなどして力を削いでいく。どれだけ敵の兵力が多くても、本領を発揮できないように隊列を崩せばいい。非効率な着手を押しつけて小さなリードを重ねていけば、自然に優勢を築き上げられる。
苑田勇一の提唱する「苑田理論」を覚えると、石の効率性をめぐるやりとりが楽しいと感じられるようになる。ゲームで「魔法を使って敵の守備力を下げる」ような感じで、「生きている石を固めることで、敵の効率を下げる」「自軍の弱い石を連絡させることで効率を上げる」といった戦略のバリエーションが増える。
……というのは苑田理論の一面ではあるのだが、効率を追求した先に「攻めない、守らない、囲わない」という禅問答めいた苑田ワールドに迷い込むことになる。模様を作っても囲わずに別の場所で実利を確保したり、攻めたい石の逆方向に向かうことが好手になるなどの不可思議なパラドックスが現れる。
囲碁が座隠と呼ばれており禅仏教との関連が深いこと、4000年前から遊ばれていたことなどを踏まえると、苑田理論を通じて東洋思想にアプローチしていると言っても過言ではない。目先の地を取りたいという近視眼的な欲望を投げ捨てて、より可能性かある方向へと石を向かわせる。はからいを捨てて自我を滅却するという、禅仏教か老荘思想を思わせる姿勢が立ち上がってくる。
・『横田茂昭の白番は楽しい!』を読んでいる。
棋書には知識を身につける本と、根本的な考え方を変化させる本がある。横田茂昭というか、関西棋院に所属するプロが書いた本は「考え方」に触れたものが多い。反対に日本棋院系統は教科書とか参考書に近く、セオリーを重視している印象を受ける。
セオリーや定石といった知識は即効性があってすぐに実戦で試せるが、どんな場面でも定石に頼ってしまう弊害がある。自分の頭で考えるよりも、暗記した定石に頼ってしまうという悪い癖がついてしまう。そうなると定石を盲信しているから勝てないのに、自分には知識が足りないのだと思い込んで、分厚い定石書を暗記して更に敗北を重ねるという悪循環に陥りがちになる。
強くなりたいと思って勉強するのは悪いことではないのだが、知識に囚われたり、相手の地が大きく見える幻影に迷わされたり、小さな利益が大きく見えたりする。目の前にあるものの価値が正確に見定められない。序盤から圧倒的なリードが欲しくて悪手を打ったり、敵の模様が大きく見えて無謀な突入をして形成を損ねる。相手が手強くて負けるよりも、勝手につまづいて勝手に自滅していることの方が多い。
そういう状態になったときに横田茂昭の棋書を読むと、凝り固まった知識や先入観が解きほぐされる気がする。「とらわれの無さ」というか「ぼちぼちでんなの思想」と自分が勝手に呼んでいるものがある。囲碁は経済に例えられることが多いのだけど、急激に事業を拡大しようとしたり、ライバル企業を潰そうとしてもうまくいかない。いいあんばいを保ちながら、末永く商売を続けられるようにする。大儲けもしないが、大赤字にもならない「ぼちぼち」を目指す。
大きく離されずに、ぼちぼちやっていく。バランスを取る。正確な状況判断に基づいて、五分五分で満足する。無理をしない。勝ちを焦らない。チャンスが訪れるまでじっくりと待つ。そういう「ぼちぼち」の感覚が至る所から感じられるので、読んでいておおらかな空気感が伝わってくる。
『大竹英雄囲碁直伝シリーズ』
『大竹英雄囲碁直伝シリーズ』を読んでいて、発想の自由さや鮮やかな手筋に感銘を受けていた。単純な読みの深さだけではなくて、思考の幅や柔軟性で頭を殴られたような衝撃を受ける。
「普通の手では後手を引いて芳しくないから、隅に手を付けて様子を見つつ、サバキの時に局面が紛糾するように伏線を張る」とか「ただ受けるだけでは味が悪いし利かされているので、相手の薄みをにらみつつ、コウ含みの死活に持ち込む。でも相手を殺すためではなくて、主導権を維持することが目的」みたいな大竹プロの実戦譜は、一見すると訳がわからなくてついて行けそうな気がしないのだが、部分的に理解できるところが混在している。
それは柔軟性や創造性が無からわきあがってきたものではなくて、級位者でも理解できる基本的なテクニックやパターンを組み合わせたものだからだと思う。セオリー通りの手を合成して局面に応じて駆使する。ひとつひとつの知識は自分にも十分について行けるものだけど、セオリーが組み合わせ爆発を起こして頭が痛くなる。
個人的な評価だけど、大竹先生はセオリーの人だと思っている。セオリーといっても教科書通りの打ち方を杓子定規で適用するのではない。単純な公式を応用して、難しい数学の問題を解きほぐしていくような思考の流れを感じる。複雑なものを単純なものの組み合わせに分解したり、あるいは単純なセオリーを合成して複雑なものを作り上げるのだけど、根本の部分はシンプルを保っている。
これよりも以前に大竹英雄の『三段の壁を突破するシリーズ』を愛読していたのだが、「応用の利くシンプルさ」というコンセプトは一貫している。基本的なテクニックに習熟して、呼吸をするみたいに自然に使えるようにする。そうやって基礎力を固めることから、自ずと応用力が生まれてくる。