正しいのかも知れないけれども、その考えは誰も幸せにしない。


 言っていることは正しいのかも知れないけれども、誰も幸せにしないような言葉がある。聞く度に息苦しくなって、後ろ向きに考えざるを得なくなるような言葉だ。冷静に現状認識を認識していて、この世界の真実を突いているのだとしても、それらの言葉を耳にしていると生きる気力がゆっくりと削がれていく。そういった種類の言葉に出逢ったら、自分の身を守らなければならなくなる。

たとえば、「このぐらいの年収がなければ子どもを持てません、老後も貯蓄が足らずに極貧生活に陥ります。子どもにも苦労をかけます」というような話は、実際に正しいのだと思う。けれどもこれらの言葉には、何一つとして自分たちの生命力を昂進させるものは含まれてはいない。
 人に恐怖や劣等感を植え付け、自罰的になるようにし向け、最終的に生命力を根こそぎ奪っていく言葉だ。こんなものに耳を傾ける必要はないのだけれども、私たちにはそれが正しい言葉として受け入れてしまう。それらの言葉の多くは呪いで、呪いは一見すると正しいような言説に擬態して、私たちの心の中に入り込んでくる。

** まず第一に、呪いの言葉は恐れを利用する。**
 恐怖のイメージを植え付けて、人の行動を縛り付ける。
「自分の言っていることに逆らったらどうなるかわかっているよね?」と言ってくる相手にろくなやつはいないが、残念なことに私たちの生きている世界は、恐怖によって相手の行動を制限することが常識になっている。
 もしある基準を満たせなければ、人生の落伍者になってしまう。恐れろ。根拠の無い不安を抱け。私の言うことを聞け。逆らったらお前は不幸になる。
 恐怖の刃をちらつかせて、他者の行動を操ろうとする。そうすると恐怖が私たちの主要な行動基準になり、死ぬまで恐れに駆り立てられて暮らすことになる。貯金をしなければ、社会に受け入れられる人間にならなければ、人から後ろ指を指されないようにしなければ……と、恐れが私たちに要求するものには際限がない。
 私たちは恐れだけが、自分を破滅から救ってくれる唯一の守護者のように思い違いをしている。恐れるのは自然の本能だ。恐れることによって私たちは、捕食者や危険から逃れてきた。恐れは私たちに必要な感情だ。恐れに従うことは正しい……と、恐れを無条件に信頼している。
 確かに適切な時に適切な恐れを抱かなければ、私たちは早い段階で絶滅していただろう。
 でも恐れを利用する人々は、私たちが本能的に恐れを過大評価してしまうという認知的錯誤につけ込んでくる。
 自分の意志で恐れていると思っても、実際には自分ではない誰かに恐れを利用されている。危険から逃げているはずなのに、いつの間にか捕食者の待ち構えている方向に誘導されていないとも限らない。

** 第二に、呪いは人を自罰的になるようにし向ける。**
 呪いの言葉は、自分で自分を罰するような考えを私たちに刷り込もうとしてくる。
 典型的なのは自己責任論だ。
 どうして自分は駄目なのか? 世間並みの水準に至れないのか? 人の期待に答えられないのか? それは自分が駄目だからだ。努力が足りないからだ。そうなったのは全部自分の責任だ。生きていく価値が無いほどの人間の屑だからだ……という風に、すべての問題の原因を自分自身に帰属させるように私たちの思考を歪める。

 完全な自己責任も、完全に自分以外の誰かが悪いと考えることも、どちらも認知が極端に偏っている。
 一見すると正しいように思われることでも、それが自分を不幸にする価値観でしかないのだとしたら、僕たちはそれを受け入れるべきではない。
 自己否定的な価値観を内面化してしまうと、自分の心が自分にとっての敵になる。免疫機能が自分の健康な身体を敵と見なして破壊していく病気のように、自分自身を最も不必要で、邪魔な人間だと見なしてしまい、自己否定に陥る。
 問題の原因が全て自分にあると思い込んで、自分を責めるのは思ったよりも楽だ。傷つけるのは自分だけで済むし、誰かを傷つけるわけではない。けれども自分を精神的にも肉体的にも追いつめて、最悪の場合には自分の命を絶ってしまう。
 自罰的になって思い悩んでも、出口は無い。悩んで解決するようなものなんてない。すぐに解決できるような問題ならすぐに解決しているし、そもそも悩まない。

 最後に「エリスの3つの質問」を引用しておく。
 ここに記されていく3つの質問のうち、呪われている言葉は(1)と(2)を満たす場合が多いように思う。でもその言葉を受け入れた結果として幸福から遠ざかるのだとしたら、 それは私たちにとって必要なものでは無いのかもしれない。

■エリスの3つの質問(非合理的な考えのチェックリスト)
(1)その考えは現実と合っているか?
(2)その考えは筋が通っているか?
(3)その考えでハッピーになれるか?