ジョン・ヤカモトと俺。


 岩手-宮城間国境を飛び越えて、東京都(ひがしきょうと)に難民として紛れ込んだのが十七歳の時だった。ソビエト連邦が崩壊したあとの岩手は政情不安定に陥っていて、岩手解放戦線による略奪と暴力に怯えながら生きてきたのだ。
 厳重に警備された岩手-宮城間国境は、丑三つ時だと言うのに皓々としたサーチライトで周囲が照らされ、粗悪な中国製カラシニコフで武装した軍人によって守られていた。俺は幼なじみのジョン・ヤカモトとともに東京都で裕福な暮らしを贈ろうと約束をしていたが、警備兵に見つかって左脚のふくらはぎに鉛弾を受けてしまった。破ったシャツで傷口を止血し、なんとか一命は取り留めたものの、ジョン・ヤカモトとは離ればなれになってしまった。あれ以来、ジョン・ヤカモトとは会っていない。生き延びたのか、それとも宮城にたどり着くことができずに死んでしまったのか。俺にはわからずじまいだった。

俺とジョン・ヤカモトには戸籍が無かった。ヤカモトはマンホール・チルドレンの先輩で、冬場は都市のマンホールに隠れ住んで、凍死しないように排熱で身体を温めていた。残飯を漁って食い繋ぐ地獄のような日々だったが、当時十歳だったジョン・ヤカモトが俺に生きて行く方法を教えてくれなければ、とっくに烏の餌になっていただろう。
 周りのマンホール・チルドレンたちが発泡スチロールを燃やして、発生したガスを吸い込んで遊んでいる間にも、ジョン・ヤカモトは俺たちに読み書き計算を教えてくれた。
 東京都にやってきた後の俺は、個人情報商人に自分の下の名前を売り払ってしまっていたので、苗字以外の名前が存在しなかった。俺のような戸籍の無い人間の個人情報は思ったよりも高く売れた。時にはジョゼフィーヌ・トムラと名乗り、またあるときには斎藤ストラヴィンスキーと呼ばれていた。
昔は個人情報の扱いがぞんざいだったので、下北沢や新宿の路地に行けば簡単に個人情報の売り買いができた。路頭に迷ったIT企業の社員や岩手以外からやってきた難民が、個人情報を叩き売っていた。戸籍の無かった俺は違法個人情報を買って、日本国民としての仮初の身分を得た。
 そのときに岩手でくらしていた頃の俺は死んだ。
 一度、個人情報を売ったあとには、俺は俺ではなくなる。二人の人間が同じ個人情報を使っていた場合には様々な不都合が生じる。ジョン・ヤカモトと暮らしていた日々も、他の人間に買い取られているのだろう。
 俺が秋葉原の個人情報闇市を歩いていると、一人の海外ジャーナリストに出会った。何でも彼は岩手内線の取材をしたいのだと言う。
 極東地域のソマリアである岩手県だ。岩手解放戦線の圧政によって治安が悪化し、陸路が破壊されているために救援物資が届かずに、栄養失調と飢餓が日常の出来事になっている地域だ。

 そのジャーナリストは日本政府と国連が目を背けている岩手内戦の真実を取材し、全世界に公表するのだと言った。俺はそのジャーナリストに密入国の手助けをした。いまさら岩手に行こうだなんて気が狂っている。
 知り合いの密入国業者を紹介し、岩手で生き抜くために必要な知識を教えた。
「もしあんたがジョン・ヤカモトと名乗る男に出逢ったら、伝えておいて欲しいことがある。俺はまだ生きている。ただそれだけを伝えて欲しい」と俺は言った。
その数カ月後。俺は1枚の写真を目にした。
子どもたちが人間のしゃれこうべをサッカーボール代わりにして遊んでいる。岩手内戦下の悲惨な状態を的確に捉えた数枚の写真は物議を醸しだし、国際社会に大きな波紋を与えた。けれども俺はその写真を観て、おぞましさよりも先に懐かしさを感じてしまった。マンホール・チルドレンの娯楽といえば、発泡スチロールを燃やして煙を吸ったり、不発弾をおもちゃ代わりにすることぐらいしかなかった。しゃれこうべサッカーもそのひとつだ。
 相変わらず、ジョン・ヤカモトの生死はわからずじまいだった。でももし仮にジョン・ヤカモトが生きていても、個人情報を売っぱらってしまった俺はどんな顔をして奴に会いに行けばいいんだろう? 岩手-宮城国境を越えようとしたあの日にも、俺は自分の怪我に気を取られてジョン・ヤカモトを結果的に置き去りにしてしまった。ふくらはぎの傷が治りかけた今でも、この時の痛みはまだ癒えない。