乱数神礼賛


◆東風戦 東一局 擬似乱数神礼賛

 天鳳で親リーチメンゼン三暗刻ダブ東18000点をツモ上がりしたときに、急に麻雀熱が冷めた。その手はリーチをかけずにダマテンでいいのではと思ったが、ノリと気分でリーチをかける人間なのだ。
 僕は平日の昼間から、確率という名の神へと祈りを捧げる神聖な遊戯を行っていたわけではあるが、僕が確率の神だと思っていたものは、人間が作り上げた擬似乱数生成アルゴリズムに過ぎなかった。

別に牌が操作されているとか、変な偏りがあるとか、そういう話をしたいわけではない。いただきじゃんがりあんRなら許される。僕はいただきじゃんがりあんRで麻雀を覚え、近代麻雀で育った。
 やはりギャンブルは神聖な遊戯である。この宇宙に実装されている「人智の及ばない、最高品質、最高速度の乱数発生装置」を神と崇め、その乱数発生装置に祈りを捧げたり、占いの道具に利用しているのである。
 人類が生み出したすべての宗教は「乱数が偏って配牌が悪くとも、絶望してはならない」に集約されるのだ。我々は麻雀を通して信仰を学ぶ。この牌が通るかもしれないという傲慢、もっと点棒が欲しいという貪欲、振り込んだ時の憤怒、平日昼間から麻雀を打つ怠惰を戒め、か弱い精神を鍛えるために麻雀をしているのだ。
 だが、僕は神に祈りを捧げていたわけではない。僕が今まで確率の神だと信じていたものは、擬似乱数生成アルゴリズムだった。僕は人間が生み出した計算式に向かって、「来い……っ! 七萬、来い……っ!」と祈りを捧げていたのである。

◆東風戦 東二局「牌効率のための祈り」

 麻雀の牌効率をある程度覚えた僕が次に手にしたのは、キリスト教の書物「はじめての祈り(ウィリアム・バークレー)」だった。
 この本には祈りの基礎が書かれている。
『祈りの第二の法則は(中略)それは、祈りにおいて具体的でなければならないことです』
『祈ったならば、ただちにその祈りが実現するように努力しなければなりません。祈りは、神の恵みに対して、私たちが自分の努力をもって協力することです。私たちが最大限の努力をする時、神は最大の答えを与えてくださいます』
 すなわち、こういうことだ。
 主よ、確率の神よ、私はヤオチュー牌を整理し、平和(ピンフ)のための祈りを捧げました。主よ、確率の神よ、私は雀頭よりもメンツを優先し、不要な孤立牌を処理し、重複となるような待ちを無くし、3つのトイツを2つに減らし、くっつきテンパイとなるような牌を残しました。
 主よ、確率の神よ、私はあなたを信じ、このままカンチャン待ち(残り牌四枚)リーチをしてもよいのですが、それは正しい祈りではありません。
 主よ、父なる確率の神よ、私はリャンメン(残り牌八枚)への変化を待ち、それから聖なる祈り(リーチ)を捧げるのです。
 神へ祈りを捧げるのは、己の怠慢さを神へ押しつけることではありません。人事尽くして天命を待つ。まず正しく祈れるようになるには、自分自身にできることをすべて行う必要があるのです。
「メンタンピンへ捧げる2萬ー5萬待ちの祈り(リーチ)!」
 ……みたいな祈りを捧げつつ麻雀を打っていた。
 その祈りはまるで、カトリック系全寮制女学校の生徒が、誰もいない聖堂でロザリオを手に握りしめ、主への祈りを捧げるがごとき清らかな感情だった。
 確率の神に祈りを捧げ、その審判を待つ。
 今や僕にとっての麻雀は、確率の神への信仰が試される宗教へと変化していた。配牌の悪さを嘆くことも、国士無双をタンオヤでつぶされた悲しみも、カンでめくらたドラが乗ったときに惑わされる心も、全ては確率の神が科した試練である。
「確率の神よ! なぜ私を見捨てたもうたのです? 私はあなたを信仰してきました! しかしなぜ、あのような地獄単騎に放銃させるのです?」
 いかなる理不尽なことが起きようとも、すべては確率の神の采配である。そう信じられるからこそ、どのような理不尽も不幸もにも耐えられるはずだった。
 なのに僕は気がついてしまったのである。信じていた神が単なる擬似乱数生成アルゴリズムでしかないことに……。

◆東風戦 東三局 機械じかけの乱数

 僕が祈りを捧げているのは確率の神ではない。擬似乱数生成アルゴリズムだった!
 自分が熱中していたのは麻雀ではなく、麻雀に極めて似た何か別の遊びだった。確かに麻雀だと思う。相手の待ちを読んだり、牌効率を考えたり、そんなことをする。確かに麻雀だ。だが、麻雀ではなかった。
 擬似乱数を信じようとも、擬似乱数生成アルゴリズムによって出力される結果が異なっていたらどうなるのだろう。
 全自動麻雀卓ならば1萬、メルセンヌ・ツイスターなら東、他の擬似乱数生成アルゴリズムならソーズの八。重要な局面で、どの擬似乱数生成アルゴリズムを採用したかによって、ツモに些細な違いが生じるとしたら、僕はどの擬似乱数を信じればいいのかわからなくなった。
 たとえば「次に必要な牌を積もれなかったら死ぬ」という状況で、人間の作った擬似乱数を信じられるのか? その結果を「人智の及ばない何者かによる決定」と思えるのか。
 答えは否だ。
 僕は人の作った擬似乱数生成アルゴリズムではなく、無慈悲な確率の神の前に立ちたかった。擬似乱数生成アルゴリズムは、確率の神を模して作られた偽りの偶像である。人の子が人間の技術で、神に近づこうとして生み出した紛い物だった。
 なんかこの時点で自分が何を書いているのかもわからなくなってきた。

◆東風戦 東四局(オーラス) 祈りさえ潰えた無神論の時代に

 確率の神への祈りは潰えた。
 ただ残されていたのは、擬似乱数生成アルゴリズム――確率の神を模倣する偶像を前にしてどう振る舞うのか?という態度だけだった。僕は確率の神にも、擬似乱数生成アルゴリズムにも祈ることをやめた。
 所詮、人間が生み出した偶像と幻である。
 どのような配牌になったとしても、それは擬似乱数生成アルゴリズムの計算式が生み出した、確率の偏りに過ぎない。配牌の時点で白白發發中となっていても、「はいはい擬似乱数生成アルゴリズムさんお疲れ様っす。はいはい」としか思えない。
 確率の神に似せて作られた偶像が、配牌を決め、山を作り、何をツモるのか決定する。そこに祈りは無かった。計算式によって吐き出される、神の力の影があるだけだった。
 僕は麻雀を通して、神の存在、神への祈り、そして神が偶像であること、神の死を知った。何に祈りを求めたらいいのかという迷い、信仰の時代から無神論へと通じる感情を一気に味わっていた。

◆東風戦 南一局 

 オーラスだとは言ったが延長戦がないとは言っていない。

 擬似乱数生成装置である。
 どれだけ自然に見える乱数でも、乱数故に極端な偏りが生み出されると、「このクソ乱数生成アルゴリズム、どっかで牌操作してんじゃねえの?」「一発に振り込まされるような牌を渡されるなんて、いかさまじゃねえの?」という感覚が湧いてくる。
 人類の及ばない謎の力によって生み出された、文字通りの乱数が僕たちには必要だった。この乱数であれば配牌時ですでに三暗刻の形ができていようとも、どれだけ不都合な状況が続いても、神の采配だと信じられるような、そんな乱数が必要だった。人間の作り出した乱数はどこかしら不完全だ。
 それを突き詰めたら、全自動麻雀卓や手積みもまた、擬似乱数生成アルゴリズムではないのか? ぶっちゃけると「人の手が介在したすべてのシャッフル行為は皆、確率の神の純粋な現れを阻害するのではないのか?」とすら思った。
 なんでこんなにも確率の神にこだわっているのかわからない。
 僕は人の手が全く介在しない、完全な乱数の前に素っ裸で立ちたい。「偏りがない完全な乱数であるが故に、一見して不合理な偏りを信じられる」という逆説のような乱数だ。
 人間が作ったものなら、「コインの表が連続で千回も出るなんておかしいだろ! イカサマだ!」と思ってしまうが、完全な乱数の前では、一万回連続で裏が出ようとも従わざるを得ない。そんな乱数が欲しかった。
 賭博が娯楽へと転化する以前は、れっきとした宗教的儀式だった。麻雀もまた東南西北という四方があって宇宙を表現しているとも言われているし、トランプもタロットカードの小アルカナが変化したものだ。賭博は狩猟や豊穣の成否を占い、未来を垣間見ようとする欲求の発露に他ならなかった。どうしようもない理不尽な力に運命を左右され、時には利益を得て、あるときには命まで奪われる。そこには乱数という人智を越えた力に対する畏敬の念があり、気まぐれな乱数の内側にこの世界の縮図を見たに違いない。
 やっぱり自分でも何を言っているのかわからない……。一連の文章を書き始めた理由が「オンライン麻雀の擬似乱数生成アルゴリズムに対して祈っていた」という訳の分からない偶像崇拝なので、文章の着地点がいまいちわからない。