信仰について。


 信じるべき神も無く、依って立つべき思想もない。そんな根無し草のままでは、人間は茫漠とした人生に耐えられない。その時に我々は宗教を必要とする。
 信仰を表明するのは簡単でも、教義を血肉に染み込ませるには時間がかかる。キリスト教の信徒になったと仮定しても、毎週日曜のミサに出席し、聖書に親しみ、神とキリストと共に何年も生きる努力をして、そうして父なる神とキリストの教えが自分のものになっていくのだ。
 何度か聖書を読んだぐらいでは、表面的な知識しか得られない。自分の思考が聖書の引用になり、常にキリストならこの場面でどのような行動を取るのかを自問自答する。その絶え間のない時間が信仰をより深く、確かなものにしていく。
 この基準で信仰を考えると、おれにとっての宗教は女児向けアニメになる。

熱量を込めて語れる宗教が女児向けアニメしか無い。毎週一回女児向けアニメを観る生活を十何年と続け、胸を熱くして涙を流す。己の口からアイカツ!の言葉が溢れ、テーマソングが自分の思考を形作る。そういうレベルで女児向けアニメが血となり、肉となり、骨となり、魂になっていく。
 これまでに掛けた想いの総量で言えば、女児向けアニメはキリストに勝る。
 信仰を頭で理解するのではなく、信仰それ自体を生きるレベルに達するのならば、ジャンルがなんであれそれはもう宗教だ。信仰が知識ではなく習慣になり、生活と分かちがたいものになる。そして自分の言葉なのか、信仰から湧き上がってきた言葉なのか、アイカツ!キャラの発言だったのか、キリストの言行録なのか区別が付かなくなったときに、初めて信仰と思しきものの尻尾を捕まえられるのではないのか。
 神を信じるだけでは足りない。神と共に生きなければならない。これが女児向けアニメの話を抜きにしてたものすっごい信心深い文章になると思うのだけれども、結局アイカツ!やプリキュアの話になる。それがおれのカルマであり、アイカツ!であり、福音だ。
 千日の修行を鍛とし、万日の特訓を錬とする。それぐらいの反復と強度で繰り返していかなければならない。おれがこれまでに読んだ宗教の経典など、ただのダイジェスト版かプリキュア劇場版だ。しかしダイジェストや劇場版が劣っているわけではない。
 劇場版には劇場版にしかない面白さがある。
 魔法つかいプリキュア劇場版では、この世界から魔法を消し去ろうとするダークマターが現れる。
 ダークマターは、いや、くまたは、魔法を使えるという理由で同族から疎まれ、外見の恐ろしさ故に同族と人間たちから疎まれて生きてきた。
 雪山で凍えている人のために魔法で火を出し、砂漠で喉を乾かしている人のために水を出す。そうやって魔法を人のために使い、自分の居場所を探し出そうとしていたくまたを、この世界は拒絶する。
 絶望したくまたは、この世界から魔法を消し去ろうとする。そのために魔法でお菓子を出してモフるんを騙そうとするのだが、モフるんはくまたのことを「ともだち」だと言った。
 これまで人々に受け入れられようとして魔法を使ってきたときには拒絶されたのに、私利私欲のために魔法を使って人を操ろうとしたときには、くまたの行いは善意として受け取られてしまった。くまた…、くまた…っ!!
 人のために使った魔法が疎外を深め、そして人を利用するために使った魔法が善意として受け取られてしまう。くまたの悲劇はここにあった。それ以外にもプリキュア劇場版は敵側の事情が全体的に重い。
 このような思い入れで女児向けアニメを観ている間に、仏教もキリスト教も女児向けアニメと区別が付かなくなってしまった。