呪術的逃走のローグライク。


・呪術的逃走のローグライク。

ウィザードリィはダンジョンの純文学であるとはよくいったものではあるが、ではローグは何か。神話である。口承である。カフカ的な不条理か、それともドイツロマン主義か、シュルレアリズムか。どれだけ合理的な選択をして、入念な準備を整えても、死ぬときには死ぬ。攻撃が外れるときには外れる。人間には制御できない圧倒的な死が、プレイヤーの命を握り潰す。それがローグライクダンジョンである。

プレイヤーを窮地に陥れるのと同じ力によって、プレイヤーは危機から脱出する。
迷宮の奥底に蠢いている魑魅魍魎たちを前に、プレイヤーは逃げ出すしかない。手持ちのアイテムを使って敵を遠ざけ、三枚のお札を投げつけて鬼から逃れ、黄泉の坂でアイテムを駆使して逃げ続ける。これは呪術的逃走を再現しているのではないのか?というのがおれのローグライク仮説だ。レベルを上げても真っ向から戦えるようなモンスターはいない。一度でも攻撃されたら100超えのダメージで瞬殺される。風来のシレンでは、シレンが紙くずよりもあっけなく殺される。1ターン耐えられればどうにかなる……という望みを打ち砕く、慈悲の無い一撃。これだ、これがダンジョンだ。迷宮の奥底で怪物に出逢ったときに、人間は脆すぎるのだ。
めくるめくダンジョン文学の世界がここにある。攻略本を読んでレベルを上げれば誰でもクリアできるような、アトラクションテーマパークのようなダンジョンではない。死! 孤独! 理不尽! 迷宮の原型(アーキタイプ)だ。
現代社会においてダンジョンはアトラクション、テーマパーク化してしまった。ユーザーを楽しませるためにダンジョンからは禍々しさと毒気が抜かれて、ただの地下巨大建造物と大差がないまでに貶められてしまった。
が、ダンジョンRPGやローグライクゲームを深層まで突き詰めていく中で、ふと底が抜ける時がある。エンターテイメントとしてのダンジョンを遊んでいたはずなのに、いつの間にか神話的な領域に迷い込んでいるのだ。そこでは太古の神々が跋扈している。竜が、半人半牛の怪物が、アークデーモンが、死の王が、牙をむいておそってくる。
人間が彼らに立ち向かおうものなら、たった1ターンで死骸と化する。人間には逃げ惑うことしかできない。手持ちの呪具を消費しながら、死と隣り合わせの時間を過ごす。

JRPGのほとんどはダンジョンや異界を巡る。コンピューターゲームという低俗に見られがちな娯楽で、子供のために玩具の中で、絶えず異界巡りの物語り類型が繰り返し語られていた。受け手も作り手も無意識のうちに、ダンジョンという素材を扱うことによって、太鼓の集合的無意識の領域に、テセウスの踏み入れた迷宮と同じ場所へと誘われていった。
おれはどうしてダンジョンを愛しているのか。
人類はダンジョンを必要としている。お前の人生には迷宮が必要だからだ。現実から隔離された、地下迷宮で、お前はたったひとりきりで進んでいかなければならない。
 迷宮に潜る者は皆、最後には地上へと帰られなければならない。そうでなければ、お前は迷宮に棲む異形の怪物たちの仲間になる。地上に帰ってくるまでがダンジョンです、というのは冒険者なら一度は聞いたことがあるだろう。
さまようよろいも腐った死体も、元々は俺たちと同じ冒険者だった。トルネコの大冒険では、体力が尽きれば地上に叩き出されるというマイルドな表現を使っているが、迷宮で死んだ人間は亡霊となって地下を彷徨い続ける。俺が倒した腐った死体も、さまようよろいも、鬼面武者も、皆、かつて死んだ者たちの魂だ。おれはやつらを成仏させなくてはならない。
迷宮において人間と怪物の間に明確な差異は無い。気が付けば人間ではなくなっている。これから迷宮に足を踏み入れる者は皆、人間にとどまる術を学ばなければならない。テセウスにはアリアドネがいて、トルネコにはネネがいる。しかし風来のシレン食神のほこらでは、自分が人間なのかモンスターなのかわからないまま、無限に潜り続けられる。
そのときはもう人間ではなく、迷宮をすみかとするモンスターなのだ。


・乱数アルゴリズムから逃れるまでがダンジョン攻略だ。

不思議のダンジョンを攻略し、ローグライクゲームを制覇したと思い込んでいても、お前の魂はまだ、不思議のダンジョンが生み出す予測不可能な魅力に囚われている。お前はいちどダンジョンから地表に戻っても、迷宮の織りなす気まぐれに翻弄されていたときの快楽を忘れられずに、再び不思議のダンジョンに潜るだろう。そしてまた地上に戻り、また潜る。その時にお前は自分が、本当の意味で不思議のダンジョンの罠に囚われたことを知らずにいる。地雷やとらばさみやおにぎりを溶かすデロデロだけが罠ではない。
ランダムに手に入る稀少なアイテム! 予期せぬ危機、どう考えても理不尽な殺され方しか待っていないような敵の配置、そこからの運と機転を利かせた華麗なる脱出劇、理不尽な死と、降って湧いたような僥倖、悪魔に呪われてでもいるかのような不幸と、神に愛されていると錯覚するような多幸感。これらの不確定要素が織りなす快楽とスリルと全喪失のめくるめくジェットコースターに魅了されているあいだは、おまえの魂はまだ不思議のダンジョンにとどまっている。そしておまえはダンジョンをさまようよろいか亡霊武者のように、ローグライクダンジョンに寄生されて快楽と苦痛を与えられ続けられるのだ。
これがローグライクだ。これがダンジョン中毒者だ。ダンジョン中毒者にとって死は終わりでは無い。さまようよろいもくさった死体も、あいつらはおれの半身だ。成仏できずに不思議のダンジョンに囚われてしまった冒険者たちのなれの果てだ……。
ローグライクは、面白くてついついハマってしまうゲームでは無い。不思議のダンジョンだ。迷宮だ。これまでにも軽い気持ちで入ってきた人間の魂を捉えて放すまいとする、暴虐な迷宮の化身である。
適切な攻略方法を確立すればどうにかなるようなダンジョンは、ただのアトラクションに過ぎない。始めは難しいように思えても、いつかは誰かによって踏破される。しかしローグライクダンジョンの乱数と気まぐれだけは誰にも征服できない。
もし仮に、千年ほどトルネコをやりこんだ仙人が、「次の階で開幕モンスターハウスがでるような乱数の荒ぶりを感じるから、足踏みして乱数を調整している……」というような境地に達したときに、初めてトルネコは攻略される。それ以外は、乱数の気まぐれでたまたま生き残ったに過ぎない。