ポリケ


同人活動と政治活動には大して違いがない。まず同人活動は好きな作品やキャラを推す。政治活動は思想を広めようとする。同人サークルを作るのに対し、政治結社や党を結成する。自分の情熱がこもった同人誌を印刷して頒布する。政治思想を広めるべくガリ版で作った政治ビラをばらまく。公序良俗を乱すロリ絵が規制され、体制側に不都合な思想は弾圧される。同人誌即売会やデモ、集会が行われて人が集まる。
政治と同人活動にはこのような共通点があったために、政治のオタク化は驚くべきスムーズさで進んだ。
時は202*年。日本国民の政治リテラシーが急上昇し、人々は同人サークルを立ち上げるノリで政治サークルを作り、二次創作同人誌を作る勢いで政治ビラや自費出版本、その他諸々を印刷していた。
かつてラジオと電機部品の町だった秋葉原は、エロゲとアニメの町になった。そこに目をつけたのが自民党で、選挙のときには秋葉原で演説することで験担ぎを行う。そうしてアニメの町である秋葉原は政治の町に変貌した。
一年に二回、終戦記念日と正月付近にポリティカルマーケット、すなわちポリケが開催され、そこでおのれの政癖(せいへき)を注ぎ込んだ同人誌を配布する。

ビッグサイトは右翼思想の右館と左翼思想の左館に分かれており、最近は政党ブースなどが出展している。
よく日本を訪れた外人が「この絵はほんとうにプロではなくて、アマチュアの高校生が描いの? 信じられない!」と驚くぐらいには、日本では絵を描く技術がコモディティ化している。まんが国家は小学生に付けペンの使い方を叩き込んでいるのだ。
このポリケでは、まだ酒も飲めない年齢なのにニューヨークタイムズだとかワシントンポストのオピニオン欄に載っていても違和感がないような骨太のコラムを書く奴がひしめき合っている。政治論考雑誌せいじタイムきららアナーキーの人気執筆陣のひとりである須野田玄靜は、少なくとも六十代だと思われていた。まるで戦後社会を生き抜いてきたような視点と、膨大な読書量に裏打ちされた知識、その割には過去の因習にとらわれない発想が持ち味だ。その須野田玄靜がコラムの最終回コメントで「今年の春から高校生でーす☆」と宣言して、界隈をざわつかせた。
その須野田先生の政治論考同人誌を手に入れるために、私は朝から待機列に並んでいた。
会場が開くまでの間、私はソシャゲーをやっていた。ソーシャルといっても、2010年代に流行したソシャゲーではない。ソーシャル=社会主義ゲームだ。ガチャは無く、カードは登録者に無料配布される。社会主義思想云々よりも、ガチャのない運営が良心的だという理由で人気を集めている。
現在でのモバイルゲーム市場は資本主義陣営と社会主義陣営が対立している。
キャピタルゲーはガチャによる収益をそのまま運営資金に突っ込んで、キャラ差分、リッチなボイスコンテンツ、美麗なグラフィックを生み出し続けている。その一方でソーシャリズムゲーはガチャを捨てることでゲームバランスの調整が容易になった。ガチャだよりのゲームはスタート時のキャラが違ってしまい、綿密なゲームバランスの調整ができない。その反面、ソーシャルゲーム『共産男子』はグラフィックこそしょぼいものの、それぞれのキャラと思想を理解していなければ攻略ができない絶妙なバランスを獲得した。
現在では自民党の神風男子シリーズと、共産男子シリーズが女性向け界隈を二分している。
神州日本を命懸けで守る神風男子では、東条英機も日本軍人もみんなイケメンになっている。共産男子ではバクーニンも毛沢東もレーニンもだいたいイケメンになった。チェゲバラは元々イケメンだった。擬人化の歴史は繰り返される。一度目は男性向け萌えとして、二度目は乙女ゲーして。ちなみに男性向けソシャゲーのマルクスちゃんは、赤いランドセル=共産主義カラーという連想で、だいたい赤いランドセルを背負っている。スターリンもレーニンもみんな女子小学生だ。
たぶん政治の話をしている面倒くさいやつと、面倒くさいオタクは相性がいいはずだ。眼鏡っ子を描くために眼鏡の構造を調べている間に、いつの間にか眼鏡自体に萌え始める。それと同じように、オスプレイの危険性を訴えるために内部構造や機体開発の歴史を調べるうちに、ティルトローターが大好きになっている。政治主張よりも原子炉の構造や地質、東南アジアにおける米軍基地の配置などを調べる方が楽しくなってしまう。これはそういうやつらのためのイベントだ。
政治はおたく的に消費されるジャンルになってしまった。それがいいことなのか悪いことなのかわからない。ただ面倒くさいやつが面倒くさい話題に首を突っ込んでいるだけなのかもしれない。