・インターネット雑記帳


個別エントリを作るまででもないが、呟くには長すぎる文章。

・『デジタル・ミニマリスト-本当に大切なことに集中する』 まとめ

・間歇強化と承認欲求を過度に刺激するものからはなるべく離れる。
・モバイル端末からブラウザを削除する。
・収穫逓減を意識する。
あるジャンルにこだわり続けても、最初に比べて得られる満足が徐々に減っていく。これ以上労力を投じても得られるものが少なくなると感じたら、撤退や、別分野の開拓を意識する。
・会話中心主義のコミュニケーションを採用する。
情報量が豊富な会話を重視して、テキストメッセージなどは事務的な連絡と割り切る。
・いいね!やコメントをしない。
ソーシャルメディアの投稿にコメントを付けない。文字情報だけのやりとりを脳が会話だと錯覚させないようにする。
ソーシャルメディアで政治や時事問題についての言及や議論を行わない。
・いつでも連絡をしていい時間帯をもうける。
・質の高い趣味を作り、低俗なインターネットに費やす時間を先に消費してしまう。
・質の低い趣味を処理する時間をあらかじめ用意しておく。
・一つの行動が別の行動の呼び水になるような現象には十分に注意を払う。
・ボードゲームをする。好奇心を持って様々な趣味を増やしたり、スキルを学んだりする。


高感情低知識のジャンク情報

高炭水化物低タンパクのジャンクフードを食べていると、満腹感を得るために必要以上のカロリーを摂取してしまう。高炭水化物低タンパクの食べ物から必要となるタンパク質を得ようとするから、食べる量が増えて肥満になる。
それは食生活だけでは無くて、情報にも同じことが当てはまる。日々摂取している情報の大半は感情過多なものが多くて、教養を深めたり新しい洞察を得られるものではない。高感情低知識のジャンク情報では知的欲求を満足させることが難しいから、欲求が収まるまで際限なくSNSをチェックしたくなる。
私たちは情報収集をして新しい知見を得るためでは無くて、怒りや憎悪、正義感などの感情を刺激するためにネットを活用している。それは情報技術と呼ぶよりも感情技術と呼んだ方がいいものだ。インターネットは情報を共有して互いの知見を高めていくものではなくて、感情を効率的に増幅させるツールになった。感情の渦に飲み込まれて、自分の軸をたやすく見失ってしまう。
ネット社会が生み出す感情の渦に巻き込まれること無く、自分が抱く自然な感情の流れに留まっているためにはどうしたらいいのか。 たとえば政治的であることや、ある思想や信仰、歴史認識を持っていること自体は大きな問題でない。だがそれが自分が自然に抱ける感情の量を超過するのなら情報技術は私たちにとって有害になる。
日常の中で自然に抱く感情ではなくて、ネットが増幅した感情に取り憑かれる。向かい合った鏡が虚像を際限なく増殖させていくように、感情はエコーチェンバーの中で反響し続けることで、より大きなパルスに増幅される。喜怒哀楽すべての感情が、自分に処理できるレベルを超えているのに、私たちは自然な感情とネットで増幅された感情の区別が付けられないまま、それが自分の本心であると誤認する。
ジャンクフードを食べ続けて肥満になるみたいに、高感情低知識の情報ばかりを摂取していると感情が過多になる。私はクソ左翼なので「安倍晋三ゆるせねぇ!」と絶えず憤っているわけだが、実際には感情に振り回されて視野が狭くなってなるだけだ。
法律に基づいて不正が裁かれることと、おれが怒りに囚われて余計な苦しみを抱くことは全く別のことなのだが、感情が過多になるとその区別が付けられなくなる。そうすると法が適切に執行されることよりも、自分の溜飲を下げることを優先するようになる。
冷静に思考しているように感じていても、怒りに振り回されて摩耗しているだけなのかも知れない。
リベラル側が主張していることは正しいと思うし、支持政党は8割ぐらい日本共産党なのだが、「さぁ、きみも怒りを抱こう!」といって感情を煽ってくるのはあまり好ましくない。大衆の感情を煽って、そのエネルギーを社会運動の動力にする左派ポピュリズム的な方法論は、一時的には盛り上がっても大本の問題が解決されない限り欲求不満を残す。怒りは瞬間的なものでしかないから、不正に対する正しい怒りだったとしても、過度に感情を煽る社会運動は長続きしない。
政治的云々を訴える前に、自分たちがどのぐらい感情過多になっているのか、SNSやテクノロジーに振り回されているのか、消化しきれないほどに感情を刺激されているのではないのか?と自省した方がいいのかも知れない。


社会問題の消費サイクル

政治意識に目覚めることは悪いことではないのだが、そのままインターネット政治戦士になるのはおすすめしない。どのような政治思想を支持するにせよ、「社会問題が消費されるサイクル」に気を配るのは有効だ。日本の論点シリーズのバックナンバーを四半世紀分ぐらい読み込んで、どの時代にどのような社会問題が議論されていたのかを概観するべきだ。
社会問題がどういう風に議論され、人口に膾炙されるようになったのか、それがどのように消費されて、誰も口にしなくなり、何も問題は解決しないまま忘れられるのかという、社会問題が消費されるサイクルを認識する。今話題になっている問題も、数年経てば誰も興味を持たなくなる。一時ばかり騒いで流行が去ったら忘れてしまうのでは無くて、長いスパンで社会問題の推移を観察する。


スマートフォンの使い方がわからない。

スマートフォンの使い方がわからない。「使われる方法」ならわかる。技術を主体的に活用するためのリテラシーを持たず、ついついSNSを眺めて時間を浪費すればいい。ぼんやりと空を見ながら、あ、あの雲のかたちはソフトクリームに似てるーと思っていた方が有意義かも知れない。
大量の情報に晒されると、脳がエネルギー節約のために思考のショートカットを多用し始める。情報の真偽を一つずつ吟味したり、深く考えるのではなくて、先入観や偏見に基づいて情報を扱うようになる。他者の悲しみに共感していたら身が持たないので、自己責任という言葉で自分を守る。情報に影響されないために感性を鈍磨させていく。
その一方で、鈍磨した感受性でも理解できるように語られている言葉や扱われる感情は刺激の強いものになっていく。
不愉快なものを見るためのコストが低くなって、24時間、絶え間なく怒ることができるようになった。週刊誌の記事を読んで一週間に一度だけ怒るとか、朝刊だけを見て政権に批判的な考えを抱くのではなくて、隙間時間にSNSを開いて、そのたびに怒りを抱いたり、怒りを表明できるようになったのは不自然なことだと思う。負の感情が垂れ流しになっていて、それは社会正義としては正しいのだとしても、自分に処理できる感情の量を超えている。
「政治の話は一週間に一回程度でいい」と思っているのは、過剰な情報のサイクルから身を離すためだ。SNSを使った政治運動に否定的なのは、それが24時間365日のコミットメントを求めるからで、アプリを開く度に社会の嫌な面を見るのは嫌だよ、というのが率直な感想だ。
そういう意味では保守的なものは、アプリを開く度に「日本人はすばらしい、誇らしい。そうではない連中は不幸で愚かしい」という、実利的な感情を与えてくれるシステムなのかも知れない。インスタントな優越感を与えるための洗練されたシステムで、愛国精神安定剤として機能する。一見すると間違っているように見えるものでも、「間違っているように見えるものが人間に与える利益は何か?」を考えた方がいい。

・パノプティコンの言葉。

自分の喋る言葉がSNSのまなざしに晒されることで、水圧を加えられて変形していくような感覚がある。ソーシャルのまなざしを浴びて、批判されるかも知れない、炎上するかも知れない、誰かを不快にさせて叩かれるかも知れない、自分でも知らない間に不適切な発言をするかも知れない……と考えているうちに、自然と使っている言葉の肌触りが変わっていることに気がつく。
パノプティコンという牢獄では、「私には確かめられないが、いつどこで監視されていてもおかしくない」という意識によって、監視人がいなくても囚人が自律的に自らの行動を制限する。
「叩かれないように、発言に予防線を張ろう」という常識的な判断は、パノプティコンの囚人が囚われている思考回路と同質のものである。ソーシャルのまなざしを意識するほど、言葉の牢獄に囚われて、喋る言葉と思考が自分の望まない形に変質していく。

情報の発信と受信は分けるべき

個人的には情報の発信と受信は分けるべきだと考えている。TwitterやSNSが革新的なのはRSSリーダー的なものをサービスに組み込んだ点で、情報の発信と受信を統合してしまった。投稿と閲覧が便利になった一方で、一つのサービスへの囲い込みが進行して、排他的なインターネットが主流になった。
Mastodonでは他のユーザーをフォローせずに使っているのだけど、それは情報の発信と受信方法は区別するべきだという理念による。企業が運営するSNSユーザーを囲い込んで収益化しなければならない圧力が働くから仕方が無い。けれども、Twitterはマイクロブログを謳っておきながら未だにRSSフィードも提供していないのは怠慢だし、Noteは今までに投稿した文章をエクスポートする機能が無い。メッセンジャーは異なったサービス同士で通信を行うのは難しい。それは技術的な理由では無くて、自社サービスに囲い込みたいという目的に沿って設計されている。その都合にユーザーは振り回されているのは本来のインターネット的なあり方とはほど遠い。
コンテンツは自分の好きな方法で発信していいし、快適な方法で受信するべきだと思う。ブラウザで閲覧しても良いし、専用のアプリを使ってもいい。囲い込まれているから仕方が無い……では無くて、自分が使いたいものを自由に使った方がいい。


・分散指向のFediverse×Internet

現在はアプリやサービス、企業単位でクローズド化・一極化していくウェブと、オープン化・分散化していくインターネットという二つの大きな潮流がある。Fediverseはいまだに既存サービスの代替品というイメージが強いが、あくまでも過渡期の現象だと思っている。よく「TwitterからMastodonに乗り換えよう!」といった主張を耳にするけれども、相互互換性のないサービスから別のものに切り替えるというのはクローズド化したウェブの発想だ。
個人的なFediverse観は「TwitterやFacebook、Mixi、Youtube、Line、ブログといったサービスがシームレスにつながっているインターネット」だ。どこかに拠点を持っていれば異なるサービスやツールに新しくアカウントを取り直さなくてもいい。
個人的にはMastodonやActivityPubだけが分散ネットワークではなくて、インターネットそのものがFediverseじゃんという考え方をしている。ActivityPubだけではなくて、HTMLやブログ、メール、IRC、その他諸々のプロトコルをすべて引っくるめてFediverse扱いしていい(※過激派)。
そう思っているのでMastodonだけに触れられてFediverseの理念がないがしろにされるのは片手落ちだと思う。代替品の立場を追求しても、規模や利便性では絶対に勝てないし、劣化版にしかならない。
今現在のSNSが抱えている問題は、Twitterというプラットフォームに情報を流すために不適切な方法が使われることだ。長文をスクリーンショットで画像として流したり、漫画を分割して投稿するといった、明らかに本来の用途ではない方法で使われるのを目にする。どう考えてもマイクロブログは政治について議論するツールとしては不適格なのだけど、今では最も大きな政治的影響を及ぼしている。
ユーザー数が多いから他に最適なサービスがあっても非効率的な方法をとらざるを得ない。だから不適切な手段で情報を発信せざるを得ない。それが一極化したサービスに依存するリスクとして顕在化している。Twitterで政治について語る行為は、Excel方眼紙で表計算ソフトをワープロとして使うとか、QWERTY配列でローマ字入力するのと同レベルのものだ。
私たちはもっと、自分が表現したいものにあったサービスを使った方がいい。メッセージを送ったり人をつなげるときにはSNSを、情報をストックするときにはウェブサイトやBlogを、画像や音楽の場合はそれぞれに特化したサービスを使う。Fediverseはこれらのコンテンツをつなぎ合わせる基盤としての可能性がある。
Mastodon単品ではTwitterと比べても勝っている部分はないし、そもそも比較自体に意味が無い。ActivityPubを使った他のサービスとの連携を最大限に活用して、ようやく真価が発揮されるものだからだ。
分散SNSはあくまでも人を繋げる導線として活用して、それぞれのメディアの長所を組み合わせて一種の分業制を実現する。そうやってオープンなインターネットを再構成していくのがFediverseの思い描いている世界だ。


・目を覚ましたらインターネットが死んでいた。

ここのところインターネットに接続する意欲が完全に削がれている。
日本語のインターネットを見ると変な胃酸が分泌されて、奥歯が痒くなるような不快感を覚えるようになってしまった。どのくらい病的かと言うと、宇崎ちゃんという文字列を見ただけで、インターネット上で繰り広げられる非生産的な罵り合いを思い出して身体が強ばる。大人が腕を上げただけで、虐待を想起して身構える子供みたいな反応だ。
ヘイトや怒りが満ちている場所を巡回先から外して、SNSで日々巻き起こる炎上や非生産的な論争をスルーし、フェイクニュースを振りまく媒体や、差別意識のあるブログやアカウントを間引いていくことで、日本語インターネットでアクセスできる場所が無くなってしまった。
じっと検索エンジンのトップページを見つめるが、どのフレーズで検索すれば目的の情報やサイトにたどり着けるのかがわからなくなってしまった。英語圏に亡命できるほどの文章力があるわけでもなく、日本語圏にも留まっていられない。
自分にとっての日本語のインターネットが完全に死んでいることに気がつく。アクセスをしても、そこにはかつてインターネットだったものの死体しかない。誰の声も聞こえなくなってしまった。
インターネット -fin-


・家電製品としてのパソコン。

Windows7時代のノートパソコンをSSDに換装して、Windows10をインストールしていた。もう8年以上前の機種で第二世代のCore i3。メモリは4GBなので、SSD化してもWindows10を満足に動かすにはスペックが足りない。
ガジェットオタクならともかく、一般的な感覚ではノートパソコンは家電のひとつだ。テレビや冷蔵庫、オーブントースターと同じ買い換えサイクルに属していて、数年おきに買い換えるという発想はない。
パソコンはインターネットにつなぐための家電で「OSのサポートが切れれば、これまでと同じように使えなくなる」あるいは「要求される性能が高くなり、古い機械が時代後れになる」という常識は理解しにくい。「冷蔵庫のOSがWindwos10に変わったので、これまで通りに冷却するのは難しくなります」とか「洗濯機の要求する性能が上がったので、洗濯時間が長くなります」と言われるようなものだ。
最新デジタルガジェットとしてパソコンを扱っている世界と、家電の一種として認識している世界では、パソコンという存在の位置づけが異なる。そのカルチャーギャップを無視したり、あざ笑うのは理解が足りない。
でも重いデスクトップ環境を採用してシステムの要求水準を高くするマイクロソフトと、メモリが2GBとか4GBでHDD搭載のパソコンを販売する家電量販店の過失も大きいよね……。
今後、スマートホームやネットに繋がった家電が増えると、「このエアコンのOSはサポート期限が過ぎました。外部からハッキングされる可能性があるので使用できなくなります。メーカーもアップグレードには対応していません。」という理由でエアコンが止まって、熱中症で死亡するような世界になるかも知れない。


・「フォローする、される」の権力

「フォローする、される」というシステムが必要以上に強力な権力を持ってしまった。ブログの読者になったりRSS登録をする行為の延長線上だったものが、いつの間にか影響力を測る物差しとして扱われ、金銭で買うものになった。それ以外にもフォローする・されるが「人間関係を結ぶ」、ブロックが購読解除ではなくて「縁を切る」といった意味が生じてきた。
「ソーシャルネットワーク上に現実の人間関係を構築する」という価値観と、「RSSの延長でしかない」価値観が入り乱れて、なんか面倒くさくなってやめてしまった。
誰がどのようなトピックや人物をフォローしているのか、あるいはされているのか?という個人情報がパブリックな場に公開されているのも、個人的には気持ちが悪い。(その点、マストドンはフォロー・フォロワーの情報を隠せるので良い)
現実の人間関係やコミュニケーションの場を、ネット上に移植するというコンセプトは望ましくない。ウェブにはウェブに適したコミュニケーションがある(はず)なのだけど、それを無視して現実でのコミュニケーションをネットで再現しようとするのは害悪しか生まない。現実では五感を駆使して情報を伝達するが、SNSには文字や写真しかない。声色も雰囲気も身振りもないから、どうしても言葉を悪い方にねじ曲げがちになる。顔が見えないから、怒っているのか冗談なのかわからないから、万が一の場合を想定してメッセージをマイナスに解釈する。
自分はインターネットえせ関西弁(なんJ語)を評価していて、あれは言葉の与える冷たい印象を和らげるために、言葉のエッジを丸めている。なんJ語そのものが「敵意はないんやでー」ということを告げるメッセージとして機能する。インターネットに最適化された方言のようなものだ。
文字情報だけのやりとりを前提にしたコミュニケーションと、非言語的なシグナルに重点を置いたものでは作法が違って当然なのだが、その違いが無視されている。


・オフライン・サンクチュアリ

環境のサンクチュアリ化を行っていた。これは集中する環境を完全にオフラインにすることによって、外部からの悪影響を避ける手法である。最近はインターネットに接するたびに皮膚が緊張状態になってしまう。ヘイト発言や現政権への怒り・不満、呪いの言葉、歴史修正主義的発言がどこから溢れてくるのかわからないので、常に身体が強ばっている感じがする。
ネットに繋がっていて、ふとブラウザを開いて、何かしらのニュースのコメント欄を観るだけでエネルギーを奪っていく言葉が目に飛び込んでくる。それらは精神力ゲージを1ドット程度削るぐらいのささやかなものだが、量が多すぎるとガードの上から強パンチを食らうぐらいは簡単にエネルギーを奪っていく。
いつ不愉快な言葉に接するからわからないから、身体も心も常時ガード状態を崩せなくなって、常に精神ガードにエネルギーの数パーセントを奪われている。そんな感じがしたので、「ここでならガードを解いても、不用意に攻撃されることがない」と安心できる場所を作らなければならないと思い至った。これがオフライン・サンクチュアリである。
重要なのは「この場所でなら心のガードを解いても攻撃を受けることがない」という確信だ。安心する。神経を緩める。心を開く。ガードに回していたエネルギーをもっと別の生産的なものに向ける。ネットに繋がっていることが当たり前の時代になって、そんな単純なことも忘れてしまっていると気がつく。スマホがあれば部屋の中にでも、この世界で最も邪悪で、エネルギーを吸い取っていくものが侵入してくる。そういったものを日用品として携行しているのは精神衛生上好ましいことではない。


・インターネットを掘る。

アンテナを広げて情報をキャッチするというよりも、インターネットを掘って情報を探すような方式にしたほうがいいのではないのか?
これまではSNSのフォローを増やしたり、RSSを登録するなどして情報収集をしていたのだけど、余分な情報を取捨選択するのにコストがかかることや、時事問題に振り回されてエネルギーを奪われることが多くなった。
ノイズが無視できなくなって、ネットで情報収集することの費用対効果が年々薄れつつある。
受動的に最新情報にキャッチアップするのもアテンションエコノミーに振り回されている気がする。「なにか目新しい情報がないかなー」とSNSのタイムラインをスクロールすることが多いのだが、これは嗜好品としては楽しくても、情報の栄養価はゼロに等しい。
更新するたびにスロットを回して、望んだ情報が出るのを待つギャンブルみたいだ。情報ガチャは、あまり健全な情報収集活動ではない。
それよりも「気になる分野に目星を付けて、ログを掘る」スタイルに移行したほうが効率的なのかも知れない。ログを掘っていくあいだに質の高い情報の鉱脈を掘り当てるイメージだ。


・安全だが自由の無いインターネットの設計思想について。

またLineアカウントを削除してしまった。
現在のOSは「ITリテラシーに詳しくないユーザーが、致命的な間違いを犯さないようにする。そのためには自由度やユーザー体験を犠牲にするのもやむを得ない」という設計思想によってかたちづくられている。
Windowsは「おまえらはどうせ定期的にアップデートしないから、おれたちが親切心で更新してやるよ。恨むかも知れないけれども、そっちのほうがおまえたちにとっては幸せなんだよ」という態度を全面に押し出してくる。AndroidやiOSも同様に、ユーザーが予想外の行為をしてシステムに深刻なダメージを与えないように、行動の自由度そのものを塞いでくる。
自分がLineを心の底から憎悪しているのは、「機械に慣れていない人のリテラシーに合わせる設計思想(※可能な限り湾曲な表現)」の極地であり、インターネットディストピアの象徴だからだ。
PCとの連携はさせるがログインの度に認証させる。スマートフォンだけで完結することを目的としていて、デスクトップPC文化に対する敬意がまったく感じられない。複数台へのインストールを許さない。Line Liteを日本国内向けに開放しない。人間関係を人質にして、Lineのエコシステムへと巻き込む。ニュースという体裁でゴシップ記事や広告をねじ込んでくる。暗号化しているがその方法は公開していないし、プライバシーが完全に守られているわけではない。
日本社会の代表的なインフラであるかのような面構えをしているが、しょせんは営利企業だ。公共心のかけらも無い。ユーザーを囲い込んで、広告を見せつけ、フリーミアム経済やソーシャルゲーム、SNSへの依存から収益を生み出している。
端末の性能が向上して、これまでにないサービスが増えて確かに便利になった。だが「ユーザーのリテラシーなんてどうせ低いだろ」という侮りと、不祥事を起こしたくないという保身が重なり合って、インターネットの自由が制限されるようになった。
危険な遊具が撤去されて、転ばないように地面にはスポンジが敷き詰められ、誰も怪我をしないような安全なインターネットになった一方で、自由に走り回ることも、創意工夫で遊び方を生み出すことは禁じられた。広告の付いたおもちゃが配られるが、指示された以外の遊び方はできない。


・インターネットの果てで壁のシミを敵だと思い込んで戦い続けるおっさんのためのレクイエム。

「私はこう思います。他の人が何をどう考えているのかは知らないし、意見の異なった他者を説得したいわけでもないし、どちらがより正しいのか議論したいわけでもありません」というスタンスでブログを書いているので、ここに書かれていることは隔離精神病棟の壁に書かれている怪文書とおなじような扱いで読んでもらった方がよい。
心理学者のユングはある日、患者の妄想を否定せずに耳を傾けていた。診察が終わったあとに、患者が「もし先生が私の話を否定していたら、殺していたところでした」と告げるエピソードがある。
すべての人間が語る言葉を精神病患者の支離滅裂な妄想として扱い、不毛な議論や軋轢を回避する。これを精神病棟メソッドと名付ける。このブログだけではなく、インターネットのすべては隔離病棟の壁に書かれた謎めいた長文と同じカテゴリの文章であり、地球は宇宙の精神病棟であり、正常な人間はどこにもいない。

インターネット上であたまのおかしい人が他人を攻撃しているように見えても、壁のシミを敵だと思い込んで戦っているだけだ。だがインターネットは巨大精神病棟である。壁の向う側にいる患者が、自分が攻撃されたと思い込んで無限インターネットバトルが始まる。患者同士を隔てているのがコンクリートの壁か、コンピュータのディスプレイかどうかの違いがあるだけだ。
自分では社会を蝕む巨悪と戦っているように思い込んでいても、それはディスプレイに映し出されたドットの集合体でしかない。あたいもソーシャルジャスティス戦士として、日本社会を蝕む腐敗した自民党政権とか反日勢力とか不法入国外国人とか難民とかその他諸々と戦っていると信じていたころもあったけど、スマホの小さな画面に映し出されたドットを現実だと思い込んでいただけだった。それだけじゃない。本に書かれているのはインクのシミで、美少女アニメキャラはただの絵で、人間はタンパク質の集合体で、世界は五感が生み出す幻影(マーヤー)であり、現実は空であり、空もまた現実だった。
これまで敵と死闘を繰り広げていたつもりだったけど、ついに気がついてしまった。壁のシミを巨大な猛獣だと思い込んで、毎日奇声をあげて殴り続けているだけだった。だがそれが事実だと認めると今までの戦いが無意味になってしまうから戦い続けざるを得ない。そんな感じの気分だ。
ここで「自分は理性的な判断ができる正常な人間だ!」とは言わない。客観的かつ理性的な言動を心がけるのは、人間にとっては越権行為で、狂人では無い人間はキリストとか仏陀と呼ばれることになる。私たちには、他者を傷つける狂人になるか、それとも人畜無害な狂人になるかの二択しか無い。


・SNSのコンテンツ細切れ化について。

SNSはコンテンツを細切れにすることで、得られるレスポンスを増やせる。Twitterはブログよりも短い文字数しか投稿できないし、TikTokの映像は最大でも一分までに限られている。
長い記事からユーザーの反応を引き出すことよりも、そのテキストを細切れに分解したほうがより多くの反応を引き出せる。十数分の映像よりも数十秒の映像が大量にあったほうが、ユーザーがコンテンツを消費するサイクルを早められるし、コメントやFav、シェアの数を最大にできる。
そのためSNSではコンテンツを細切れにする強い推進力が生まれる。その一方で腰を落ち着けて接するタイプのコンテンツは、反応を生み出す速度が遅いというだけの理由で、情報拡散のうえで足かせを背負うことになる。
価値のある情報がバイラルするのではなくて、情報自体をバイラルしやすいように最適化する。その環境では、読むのに一日以上かかる本の感想や、二時間以上拘束される映画などは、短文コメントやショートムービーと競争する上では不利になる。
情報を発信する側も、長時間掛けて長いコンテンツを作るよりも、短いものを矢継ぎ早に発信した方が、楽だし脳への快楽を増やせる。でも思考や文章それ自体がネットメディアに最適化されて、細切れになっていくのは好ましいことでは無いのかも知れない。


・みんなに愛されない暗黒SNS文章術

SNSのフォーマットを使って情報の送受信をしていると、下部構造に意識が規定されそうになる。まだスマートフォンが普及していない民主党政権時代のツイッターで、おれは政権批判ツイートをしていた。政府に対して否定的な投稿をするとみんなおれを褒めてくれて、えぐい感じでリツイートされる。ここでおれは「現行政権を批判すればいい」とすり込まれた。
安倍政権になったあとにも同じことをすればみんな喜んでくれるだろうと思っていたのだが、帰ってきたのは「政府が嫌なら日本から出て行けよ、非国民!」というクソリプの嵐だった。
このときにおれは犬がご褒美と罰で躾けられるようにして、ネットの反応によって自らの価値観が成型されていることに気がついた。自分が何をどう思っているかということよりも、褒められたり批判されるプロセスを通じて思想的に調教される。好ましいレスポンスがあるか否かで、自分の思考を調教していく仕組みがSNSにはある。ごしゅじんさま、褒めてわん!
反応が無い言説よりも、人々が関心を持ち、レスポンスを返してくれる言葉を選好するようになる。いつの間にか自分が思っていることよりも、反応を得られる言葉が自らを規定するイデオロギーになる。
安倍晋三を批判するとみんなおれのことを褒めてくれるし、韓国政府に対して強硬姿勢を見せるとみんなおれを評価してくれる。そう思って思想を先鋭化させ、さらに過激な発言をする。狭いコミュニティに受け入れられる形に精神が変形し、フィルターバブルを強固にする。
そういう理由があり、このブログでは「この文章を読んで他人がどう思おうが、おれの知ったことでは無い」というスタンスを取っている。他の人が読んで理解しやすい文章を心がけるとか、多くの人が共感してくれるような話題を扱う配慮、宗教や政治の話題は日本では一般的ではないので避けるというバランス感覚が欠落している。みんなに愛されるSNS文章術とはほど遠いのだが、愛の形は人によって異なる。
精神病院の隔離病棟で、壁のシミを巨大な猛獣だと勘違いして戦い続けているような、そんな文章を書きたいよね。


・インターネット自殺日記+その他近況。

またインターネット自殺期がやってきて、マストドンのアカウントを削除してしまった。定期的に携帯電話を解約したり、SNSやLineアカウントを消すことが多い。自分が存在していることに耐えられなくなって、アカウントを消しては作り、またアカウントを消している。
アカウントを削除したら集中力が戻ってきて、積んだままだった『死の家の記録(ドストエフスキー)』と『人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス(フロイト)』、『嵐の王・第一巻(カイ・マイヤー)』を読了できた。
自分はSNSとは相性が悪い。画面に映し出される大量のツイートを観ていると、気にすることが多くなりすぎて意識が散漫になる。本だと最初にぱらぱらと全体をめくって、分量や内容、構成などをざっくりとチェックできて、これから読むコンテンツの全体像を俯瞰できるのだが、SNSだとそれが不可能になる。終わりが無く、パラグラフの構造も無い言葉の羅列が延々と続いて、エネルギーを惜しみなく奪われる。
SNSから離れると、これまで拡散していた意識が一点に集中し始めて、ちょうど虫眼鏡で太陽光を集中させるような感覚になる。

How to Break Up with Your Phone: The 30-Day Plan to Take Back Your Life: Catherine : Amazon.com: Booksという本を読んで、スマートフォンのアプリを整理した。「生活に便利なアプリ」と「場合によっては必要だが、時間を浪費するだけのジャンクアプリ」、「いますぐアンインストールするべき」に分類するなどの、スマートフォン依存症を和らげるトピックが載っている。
途中まで読んでいて、そこまでやるのならフィーチャーフォンの方がいいのでは無いのか?……と思い至り、KaiOS搭載端末の購入を計画していた。
これはSmart feature phoneというジャンルで、低価格でありながらもメールやSNSアプリが使える。バッテリーの持ちもいい。問題は日本に輸入しようとすると、4000円の端末に対して送料が2000円ぐらい取られることや、そもそも日本へ発送していないこと、対応しているSNSアプリが日本ではマイナーなこと、日本語には対応していないこと、日本の電波周波数に対応していない機種も多い……などの多重苦を背負うことになる。
日本人であるという理由だけで、最新デジタル機器から排除されるのが切なくて枕を濡らしていた。


・文章を最適化しない努力

1
以前はてなダイアリーでブログをやっていたのだけど、反応を最大化するように自分の文章が最適化されていったのよね。より多くのレスポンスが得られる話題を選んで、感情を煽る表現を使って、タイトルを過激なものにしてPVを稼ぐことが正しいと信じて疑わなかった頃がある。炎上マーケティング一歩手前だ。
PVやブクマ数の多さ以外に文章の善し悪しを決める指標が無いから、アクセス数やFav数に縋るようになる。そうすると文章を書く行為が反応の数を増やすだけのゲームと化す。
自分の文章や思考が、数を最大化するためにだけ最適化されていくのは嫌だと思っているから、このブログではアクセス数や反応を可視化する要素をすべて取り払っている。
数字が増えていくのを見たいだけならハクスラRPGかクッキークリッカーをやっていたほうがよい。

2
・ソーシャルネットワークを使っていると、人を不快にさせないような言葉遣いに徹するあまり、誰にとっても当たり障りの無い言葉しか喋れなくなる。それとは反対に、人を傷つける過激な言説に慣れ親しんで感覚が麻痺してしまうかも知れない。
現実社会だと喋る相手に対して話題を選んだり、言葉のエッジを調整したりするなど、思ったよりも複雑な言語操作をしている。共通点を持った数名から十数名の集まりならともかく、まったく属性の異なった数百万の潜在的なユーザーに対して言葉を個別にチューニングするのは不可能だ。
すべての人間を満足させられるような言葉は使えない。常に誰かを不快にさせる可能性がある。対面で話すのなら多少はオブラートに包めるような言葉が、ソーシャルでは垂れ流しになる。
どっちにしろ自分にとってはいい取引だとは思えないので、SNSの類いにはあまり耽溺しないようにしている。

3
・いまは何をするにしてもSNSで導線を作らないといけない。検索エンジンが役に立たなくなって、SNSのタイムラインからしか外部リンクにたどり着けなくなった。でも情報のサイクルが短すぎて、ログがすぐに流されてしまう。
絶え間なく情報を発信して、他者にシェアや拡散をしてもらって初めて、情報が可視化される。
営業力だとか、ネット上での人脈作りといった、アテンションを集める技術の方を求められるのは、多くの人にとってはオーバーキャパシティだ。
ひとりでコンテンツを作って宣伝するのではなくて、自然に役割分担ができる仕組みがあったほうがいい。
以前のインターネットには個人ニュースサイトというジャンルがあって、「コンテンツを作る側」と「情報をまとめて拡散する側」にいい感じに分業されていた。
アクセスのハブになる個人ニュースサイトがあり、情報の拡散力でブログ文化を陰から支えていた(と個人的には思っている)。
今では一人でコンテンツを作って、一人で人を集めて、何でも一人でやらなければならなくなった感じがする。

個人ニュースサイト史 < 佐倉葉ウェブ文化研究室


・テクノロジー青い鳥

ハードディスクとSSDを統合してドライブを高速化するStoreMIという技術があるのだが、思ったよりも使いにくい。よく使うファイルをSSDに移動してパフォーマンスを向上させるというメリットはあるが、デメリットも大きい。いちどディスクを統合すると別のOSからはドライブの中身が見えなくなってしまうし、設定を解除するのにも時間がかかる。ドライブを二つ使うので、片方が故障するともう片方にもアクセスできなくなる。
これまではLinux用SSDとStoreMIで結合したWindows10(SSD+HDD)だったのだが、Linux用SSD、Windows10のシステムドライブ用SSD、共用データドライブHDDのほうが柔軟性があるのではないのかと思ったので構成を変えた。
勘違いしないで欲しいのだが、StoreMIが使い物にならないという話ではない。HDDにWindows10をインストールしているときには、安価な120GBぐらいのSSDを使って手軽に高速化できる。Ready Boost的な使い方だ。
運用には気を遣うが、HDDが余っているとか、大容量のSSDを買う予算が無いというようなときにはピンポイントで役に立つと思う。金のあるやつは大容量SSDを買え。
しかし色々試したあとにデフォルト設定や最初の地点に戻ってくるのはテクノロジー青い鳥よね。いろいろとLinuxのディストリビューションをインストールしたあとに、最初に選んだLubuntuに戻ってくる。
比較検討した結果、最初に直感で選んだものが一番良かった。その確信を得るためだけに私たちは、よくわからない新製品や技術を性懲りも無く試すのかも知れない。


・Yahooニュースコメント欄の住人になりたい。

Yahooニュースコメント欄で歪んだヘイト発言ができるような人間になれれば、楽に生きられたに違いない。ヘイト発言がしたいというよりも、ヘイト発言をすることになんら痛痒を感じない人間になりたかった。限られた知識と狭い了見で、この世界のすべてが理解できているようなコメントを恥ずかしげもなく投稿して、謙虚さを失って、気に入らない奴には一方的にレッテルを貼る。何も考えずに、「そんなに嫌なら日本から出て行け!非国民!」とかツイートできるようになれれば、おれは幸せになれるんだ……。そんなことを思いながら、おれはYahooニュースコメント欄の住人になることに憧れた。
そうなるためにはまず、定型的な反応ができるようにならなければならない。犯罪の報道に対して「もしかしたら在日か中国人じゃないのか?」とか疑ったり、自分で考えることを放棄してヘイト発言を繰り返し、似通った価値観を持った人間たちに囲まれて、フィルターバブルの中で承認欲求を満たす。
あるいはTwitter左派政治クラスタの仲間入りをして、安倍政権批判を繰り返す。そうすれば左翼のひとたちから「君は民主主義や人権が理解していてえらいね」と褒められて、承認欲求が満たされる。
エコーチェンバーの中に閉ざされ、不愉快なやつはブロックして、他人にどう思われようが気にせず、狭い世界の中で狭い了見を振り回して、人を傷つけていることに鈍感になって、インターネットモンスターになれればおれは幸福になれるんだ……。承認欲求、全能感、所属意識、仮想敵と戦うことで得られる一体感と高揚感、そういったものをすべて手に入れられるんだ……。


・インターネットは倫理的であるべきという話。

いまのインターネットやSNSは倫理性に関する規定が無い。
TwitterなどのSNSはコンテンツに終わりが無くて、いくらでも下にスクロールできる。ソーシャルゲームは借金を抱える危険性が常に横たわっている。
よく「節度を守ってスマホを使いましょう」という警告がなされるけれど、個人の問題に転嫁する風潮には疑問を抱かざるを得ない。オンラインゲームを規制するべきだとは言わないが、自己責任の名の下に何百万円も課金できるゲームシステムや、人の中毒性を煽るようなUIが野放しにされているのは倫理観を欠いていると言わざるを得ない。
いまの人類はスマホやSNSに対して免疫が無い。天然痘の免疫を持たないネイティブアメリカンに、天然痘患者の使った毛布を贈って全滅させるという鬼畜エピソードがあるが、不用意にネットサービスを使っている自分たちも似たようなものだと思っている。
IT企業が行動心理学に精通した従業員をかき集めて、ユーザーがより自社サービスに耽溺するようにとしのぎを削っている世界だ。「時間を守って正しくスマートフォンを使いましょう」と言うのは、何の対策もとらずに「のめり込みに注意しましょう」と言っているパチンコ業界と変わりが無い。生半可な精神論を振りかざすだけでは、簡単にIT企業の養分になる。
自分は自制心があるからガチャ破産を免れているのでは無く、たまたま罠に掛からずに済んでいるだけだ。FGOにのめり込まずにいる理由は、「Fateの原作を時間のあるときにプレイする」と言ってからすでに十年ぐらい経過している間に色々と面倒くさくなってしまったことが大きな要因だ。話題に追いつくために初めて見たが、マドハンドみたいなやつを延々と倒し続けることに飽きてやめてしまった。
しかし、もしKey Grand Orderなるソーシャルゲームが出て、神尾観鈴編の「もうゴールしていいよね……」から強引にピックアップガチャをねじ込まれたら破産する未来しか見えない。
個人情報を第三者に売り渡さない検索エンジンは現在ではメジャーになったが、それと同じように「人をネット中毒にしたり、依存させるような仕組みを意図的に排除しているサービス」が増えるといいなーと思っている。
アルコールフリーや脂質フリーみたいな感じで「Favで自己承認欲求が煽られることからフリー」とか「更新が気になってしまうデザインからフリー」なアプリやSNSが出てくればまた状況は違ってくるが、たぶん儲からない。


・SNSを使うのは極力控えています。

短い言葉で現実を雑に切り捨てる思考方法に慣れ親しむのは、好ましい言語運用だとは思えないからです。僕たちは自分の言葉を喋っていると言うよりも、フォーマットに合わせた形で自らの思考を変形させることの方が得意です。自由に思考しているつもりでも、媒体に合わせて言葉の使い方や思考、現実認識が変わっていきます。
僕がこのブログで長い文章を書くことにこだわっているのは、「わかりやすさ」に警戒心を抱いているからです。200文字程度の短いフォーマットに慣れ親しむことで、「わかりにくいものを複雑なまま扱う」思考力を無くすのはいい取引だとは思っていません。
短い文章でのアウトプットを繰り返している間に、使っている言葉は自然と感情的なものや、わかりやすく現実を単純化するものになっていきます。コミュニケーションの簡便さと引き替えに、ややこしい現実を複雑なままで受け止める力や、一言では言い切れない事柄をどうにかして相手に伝えようとする努力を失っていきます。
長くて複雑であればいいというものではないのですが、「わかりやすさ」には危険な側面があると思っています。複雑なものを整理して飲み込みやすくするようなわかりやすさであれば、問題はありません。ですが、現実の複雑な部分をそぎ落とした「偽物のわかりやすさ」がSNSの文章に多いような気がします。
それは複雑な現実をわかりやすくしたのではなくて、理解しやすいように現実を歪めているからです。短い言葉で何かを語るときには、説明のために細かい部分をはぶくときがあります。それでも、わかりやすさを優先するあまりに現実を無視してしまうのだとしたら、その言葉は僕たちにとって有害なものだと思います。


・思考と反射。

自分が思考しているのでは無くて、「ある特定の話題に、定型的な反応を返す」だけになっているのではないのか?と思うときがある。「時事問題に対して、良識的な正論を返す」という風に、思考ではなくて脊髄反射でコメントを書き込むようになっているのではないのか?と、マストドンをしながら考えていた。
自分では思考しているように錯覚するのだけれども、「Aのインプットに対して、Bをアウトプットする」という定型的なレスポンスしか返していない。ただそれだけの反応で終わってしまう。
「この話題に対して反射的に○○と反応したくなるんだけど、これでいいのか? もっと別に言うべきことや考えるべきことはないのか?」というプロセスを意識的に立ち上げないと、定型的な反応に堕してしまう。
SNSで短いコメントを大量に吐き出していても、思考したことにはならない。けれども短い言葉しか表現できないサービスを使っていると、自分の思考が140文字や数行に収まっても問題ないレベルにまでそぎ落とされるような気持ちになる。
人間の思考はフォーマットに合わせて最適化される。考えたことを表現しているのではなくて、使っているツールに合わせて思考のあり方そのものが変形する。喋り言葉、手書き、ワープロ、ブログやSNS、パソコンやスマホ、テレビなど、表現するメディアによって思考は最適化される。
自分で考えているつもりでも、使っているツールに合った形で思考しているに過ぎない。別のツールを使えば、表現の方法も出てくる結論も思考の流れも変わってしまうのかも知れない。


・インターネット砂漠

インターネットに耽溺する理由は、含まれている情報が薄いからだと思う。アプリを開いてSNSの短文を読んでも、「意味のある文章を読んで、まとまった知識を得たぞ!」という満腹感が得られない。好奇心が満たされないから、延々と画面をスクロールしたり、べつのアプリやWebサイトをぐるぐるとネットサーフィン(死語)するのだが、やっぱり好奇心が満たされなくて苦しくなる。
もはやネットサーフィン(死語)ではなくて、水を求めて不毛のインターネット砂漠をさまよっている感じだ。
ネットだけでは無くて連載漫画も、完結した作品を読んだ!という達成感が得られないまま、だらだらとシリーズものを読んでいることが多い。
読めば読むほど、見れば見るほど、乾いていく感覚が強くなる。


・パブロフのわれわれ

時事問題に反応して良識的なコメントをするのは楽な行為なのだが、思考の怠慢であるような気がした。TwitterをRSS代わりに使っているときに、通り魔事件や政治家の失言があったのだが、タイムラインが良識的な反応や悪を糾弾する言葉で埋め尽くされた。ひとつひとつの発言は些細なものなのだが、似たような言葉や反応が画面に埋め尽くされるのは異様な光景に見えた。
反応がテンプレート化しているせいかもしれない。政治家が失言をしたら全力で批難して構わない。そのこと自体に過失は無いのだとしても、自分たちの反応が自動反射に近いものになっている。
パブロフの犬はベルの音を聞いただけでよだれが出るようになってしまったが、僕たちは政治家の失言を見るだけで定型的な反応をするように条件付けられてしまった。それは思考と呼ぶよりも日々のルーティンが生み出した条件反射でしかないように思ったので、良識的な発言やテンプレートに沿った反応は控えたほうがいいのかも知れない。

・追記。
「画面が似たような発言で埋め尽くされるのが異様に思える」と書いたが、これはあくまでも個人的な感覚だ。逆に、「自分と同じ思考をしている人が、こんなにもたくさんいる」ということに安心感を覚えるユーザーの方が多いのかも知れない。


・感情喚起システムとしてのインターネット

現在のインターネット上に流通しているのは、情報では無くて感情のように思える。正確には感情をより効率的の喚起するための情報が好まれて、SNSは集団の感情を増幅させるための拡声装置(アンプ)になっている。
価値のある情報を共有して、より冷静になるのではない。手軽な方法で感情を喚起させるためのシステムに飲み込まれて、不当な方法でさまざまな感情を搾取されているような気分を抱く。
さあ怒りを抱きましょう! 正義感を振り回してストレスを発散しましょう! 感動しましょう! 一体感を覚えましょう! 非道徳的な振る舞いをした人間を糾弾しましょう!……というように、常に何かしらの感情を刺激される。そのことに疲労感を覚えてしまった。
時事問題に言及したり、政治、権力者の不正に対して憤ること自体は普通の反応だ。けれどもそのプロセスにインターネットが介在することで、自分自身が感情を拡散する保菌者になる。誰かの投稿した記事を見ていらだちを覚え、その情報を拡散して他者の感情を刺激する。その仕組みが不健全なものに感じられた。
感情を抱くことは悪いことではないのだが、刺激される回数があまりにも多すぎて疲弊する。
主観的な情報によってある種の感情を無理矢理引き出されている。これを自分は感情喚起システムと呼んでいる。
現在のインターネットは客観的な情報を得て、冷静な判断をうながすようなツールとはほど遠い。効率的に感情を刺激するためのシステムだ。ユーザーの感情エネルギーを原動力にして、さらに大きな感情を呼び覚ますような代物になっている。
コメント欄やSNS、スマートフォンは、より人間が感情的になりやすいように設計されている。文章を書いているときにはパラグラフの構成や論理構造に気を配る必要性があるのだが、細切れの文章を脈絡無くつぶやけるSNSでは論理よりも感情の比重の方が大きくなる。
冷静さよりも、怒りや負の感情を媒介にした方が瞬く間に情報が広がる。手軽に怒りたい、感動したい、イージーな方法で一体感を覚えたいというニーズを満たすために生み出された、効率的な感情喚起システム。それがいまのインターネットの姿だ。
自分が日本語のネット環境を遠ざけたいと思うのは、SNS上に垂れ流される感情の量に耐えられないからだ。情報ではなくて感情が流通していて、胸焼けを起こしてしまう。


・情報の循環が滞っている。

SNSで情報収集せざるを得ないときがあるのだが、Webサイトやブログに比べると情報の循環が滞っているような気がする。googleなどの検索エンジンが使い物にならなくなって、TwitterやYahooリアルタイムで検索することが多くなった。検索エンジンはある程度知りたいことがらがわかっていてピンポイントで検索するときには役に立つのだが、ざっくりした情報を探したり、知らなかったことを知りたいという用途には適していない。かといってSNSを検索しても情報が断片的になっている。
ニュースを読むときでも機械のアルゴリズム任せか、フォローしている人のリツイートやシェア、ソーシャルブックマークのバズに頼っている。こういう環境に身を置いていると、自分がデジタル盲目になってしまったように感じる。見通しが悪いウェブのなかで、手探りで情報を探している。データを俯瞰する見取り図がないままでいる。構造的な無知の中に放り込まれているようで居心地が悪い。
インターネットが狭いと感じる。自分が検索できる言葉と、フォローしている相手、回ってくる情報、巡回先の中に囚われている。そのフィルターバブルの外側にいくのが難しい。書店の本棚を眺めいているときに、ふと周辺視野に写った本が気になって買ってしまうというようなことがない。探すつもりがなかったものを見つけてしまうという偶発性がない。「あなたのおすすめはこの商品です」と関連する商品が表示されるのでは足りない。リンクが張られていないととっかかりがなくなってしまって、目の前にあってもアクセスできない。その構造が窮屈に思える。ネットが巨大な閉架式の書庫になって、探している情報にしかアクセスできない。自分が知りたい情報以外を知るのが難しくなる。偶発的に新しいものが入ってこない状態が息苦しく思える。自分が知りたいものではなくて、知るつもりも興味もなかったものが知りたい。それが構造的に不可能になっているので不満だった。
それでなるべく雑誌を読むようにしているのだけれども、今度はその情報を効率的に共有する方法もない。わざわざポストしたり紹介するわけでもない情報は伝播しない。常に情報を発信し続けないと、膨大なログに埋もれて存在が忘れられる。アナログ世界なら本棚に指しっぱなしにしたり、雑誌をテーブルにおいておくだけで「在る」という情報が伝わるのだが、ネットは「在る」ということを告げるためにもアクションが必要になる。それはコストパフォーマンスが悪い。


・情報技術左翼

海外メディアを読んでいると、情報技術の発展と、巨大IT企業が社会や資本主義、民主主義のあり方を根本から変貌させてしまうのでは?という視点の記事が多い。けれども日本だとそこまで危機感が伝わってこない。
Facebookのスキャンダルが起きたときには、新聞がコンピュータ雑誌みたいになっていたので楽しく読んでいた。本邦の地方新聞では、ようやく天声人語的なコラムの担当者がスマホを買ったことを報告していた。この落差に絶望感を覚えてしまった。情報技術に対して後手に回っているどころか、何が危機なのかを把握できていない。この温度差がひどい。
保守化したリベラル(という言葉も矛盾している)は、情報技術やコンピュータに対する感度が低い。本来なら「インターネット民主主義! 大企業の支配から逃れろ! 自宅に建てるmastodonサーバー!」とか「国家権力の検閲と戦うための暗号アルゴリズム入門!」「世界のネット検閲ルポ」みたいな記事があってもおかしくなかった。
現在のインターネットは危機に瀕している。GAFAによってネットワーク空間が植民地になり、情報技術と国家権力の結託によって自由が抑圧され、民主主義がポピュリズムに飲み込まれる。企業は個人情報を収集し、資本主義はより効率的に人々の欲望を刺激できるように進化する。
リベラルもそういうのと戦うの大好きじゃないの?と思うのだが、そこまで意識が育っていない。日本共産党あたりが自前でMastodonインスタンスを立ててもいいんじゃないのか。
情報テクノロジーだーい好き☆という気持ちがないとアーリーアダプターを引きつけられない。なんかこう世界の最先端を突っ走っている感がいまの左翼には足りない。100年前の社会主義思想はもっと輝いていた。思想の最先端を突っ走っていた。啓蒙主義が王政のくびきから人々を解き放った。南北戦争が奴隷制を打ち砕いた。その延長線上で、資本主義の鉄鎖からプロレタリアは解放されるはずだった。実際に共産主義国家を作ってみたらどこも圧政と欠乏が支配する全体主義国家になってしまったのは残念だが、ゼロ年代(※1900年代)の社会主義思想はきらきらしていたよね……。
「理性に導かれて合理的な社会を作り上げれば人類は幸せになる」という理性への信頼が近代社会なのだが、そこまで人間は理性的ではないことが明らかになってしまった。合理的な社会を作れば幸せになれる。確かにそれは完璧なプランだ。非合理的な人間には不可能だと言うことに目をつむれば、だけれども。

・捨てようぜ、自由意志!
個人的には人工知能技術が人間の代わりに思考してもいいと思っている。眼鏡をかけて視力を補正するみたいに、人工知能が非合理的な思考を矯正してくれるような仕組みがあってもいい。
眼鏡も中世時代は悪魔の道具だった。人工知能も現代社会では恐怖の対象として見なされるときがある。たとえ機械に頼りすぎて思考が萎えてしまうようなことがあっても、テクノロジーの力を借りて合理的な決定をできる方が好ましいんじゃね?と思うのです。捨てようぜ、自由意志!


・知らないでいいことを、知らないままでいるために。

自分が自然に知ることができる情報だけで十分なのかもしれない。何かを過剰に知ろうとするのは、無知でいることへの不安が大きいからだ。すべての事柄を知るのは不可能だけど、満足するまで知りたいものを調べられる。知ると同時に知らないものの量が多くなりすぎる。
情報収集するよりも、適切な無知にとどまっていることの方が難しい。何も知らずにいることはできないけれども、際限のない情報に振り回されてしまうのも健康ではない。必要な情報を、適切な分量だけ見聞きする方法を学ばないと、情報量の多さに押しつぶされてしまう。
食べ物を食べれば満腹感が得られるけれども、知ることには満足感はない。物理的に満たされることがないまま、脳がより大きな刺激を追い求め続ける。自分がまだ調べていないところにすばらしい情報があるのかもしれない。そう思って新しい情報を探すのは、スロットマシーン中毒になってしまったネズミと変わりがない。
知りたいときに、知るべき最低限のことを、知ることができる。知りたいのはその方法だ。


・求められているのはTwitterの代替品であって、分散型SNSではない?

オープンソースソフトフェア文化の理解がないままに脱中央集権型のサービスを利用するのは片手落ちだ。Twitter社が運営するTwitterからPixivやドワンゴが運営するMastodonに移住しても一抹の不安は残る。私企業の思惑に振り回される側であることに変わりは無い。
求められているのはTwitterの代替品であって、分散型SNSではないということを頭の片隅に入れておかないと、Mastodonは人が少なくて機能が貧弱なTwitterの避難場所にしかならない。規制が緩くなればMastodonにとどまっている理由はなくなる。なんだかんだ言って企業製サービスのほうが便利だし使いやすいし、リモートフォローの仕組みも面倒くさい。
ニコニコ動画かPixivが作ったTwitterの代替品なのか、分散型の理念に根ざした自由なインターネットの一角なのかをはっきりさせないと、MastodonインスタンスはAmebaなうやはてなハイクと同じ轍を踏むかもしない。
PawooはPixivとの連携機能が便利だけれども、そのことで連邦制SNSの一部になるのではなくて企業サービスに囲い込まれる可能性がある。連携の便利さと、ほかのサービスとつながるのが不便になることは表裏一体だ。
「もしサービスが無料で使える場合、あなたはユーザーではなくて商品なのだ」という言葉があるが、無料でMastodonを使うために支払っている代償は何か? この問題に答えられないのなら、まだ自分はユーザーではなくて商品の段階にとどまっている。


・SNSのサブウェポン的運用について。

・この文章を読んでいるやつはいますぐにSNSをやめろ。
……というのも不可能なので、マイクロブログサービスを補助的に使う方法について検討していく。
マイクロブログはサブウェポンだ。使い勝手のいい短剣のようなポジションだが、デメリットも多い。数日分しか過去ログをさかのぼれない。長文は細かく寸断されてしまう。見出しもつけられない。面白いことを言っている人を見つけても、過去のコンテンツを閲覧するのは容易ではない。
いついかなる場所でも簡単に投稿できるというメリットがある一方で、情報をまとめて摂取する上での効率性が悪いという致命的な欠陥がある。SNSを社会のインフラにしたり、情報収集とアウトプットのメインツールにするのは非効率的だ。そう考えているがゆえに「SNSのサブウェポン的運用」を提唱したい。
具体的にはブログを開設する。それが難しいならdiaspora*というFacebookのマストドン版みたいなやつを併用したり、別のWebサービスと組み合わせて、情報のストックと一覧性の確保に気を配ればいい。

・面倒くさい発言はマイクロブログを使うな
文脈を踏まえる必要がある話題や、発言を切り取られたら誤解を招きかねない文章、人によって見解が異なる話、政治に対する言及、コメント欄が荒れる可能性が高い話題はマイクロブログで扱うべきではない。
マイクロブログは交流には向いているが、議論や対話の基盤にするにはあまりにも脆弱すぎる。自分の歪んだ価値観を言いっ放しにして、気に入らないやつをブロックするぐらいしかやることがなくなる。
スマートフォンの小さな画面とマイクロブログやSNSの不便な設計は、民主主義社会とは相容れない。スマートフォンは高度なテクノロジーなのだが、冷静な議論や、信頼の置ける情報収集を行える技術ではない。そもそもスマートフォン自体がパソコンのサブウェポンとして生まれた(※要出典)。主力はパソコンであり、スマホはあくまでも外出先でインターネットを閲覧するものだった。「パソコンの前にいなくても、別の部屋や外にインターネットを持ち出せる」というところから、モバイルインターネットの世界が始まったことは留意しておくべきことだろう。
Twitterも当初はパソコンの前で使うものだった。スマートフォンの無い時代のTwitterと、誰しもがモバイルデバイスを持つ現在のTwitterは全く別のツールだと思っている。
スマホやマイクロブログ自体はツールとしてはおもしろい。しかしそれだけに頼り切るのは愚の骨頂だ。スマホやマイクロブログのサブウェポン的特性を活用することと、サブウェポンでは不便なときにはパソコンやほかのサービスを使い分けるITリテラシーが求められる。
上記の文章のような理由があり、マイクロブログはあくまでもサブウェポン的な運用を心がけることにする。


・「何が市場を独占するのか?」という発想を捨てろ。

よく「○○という新サービスは第二のFacebookになるのか?」という記事をみるときがあるけれども、この発想は好ましいものではない。次にどのサービスが市場シェアを独占するのか?という発想は、勝者が市場で一人勝ちする世界を肯定してしまっている。
「様々なサービスが互いに共存するためにはどうしたらいいのか?」を考えるべきだ。FacebookでもTwitterでもmastodonでもtumblrでもmixiでもInstagramでもマイナーなサービスでも、市場シェアなんて気にせずに好きなサービスを使って、更新情報だけを別のアプリで一元的に管理するような未来になって欲しい。ちょうど、ブログやウェブサイトの更新をRSSで管理するような感じだ。
あまりにもタイムラインに縛られていて、他のサービスとの連携がうまくいかない。ただ更新されたコンテンツを手早く確認できればいいだけなのに、いちいちアカウントを登録して、フォローして、タイムラインを見るという手順が求められる。
企業の都合や市場でのシェア争いに巻き込まれて、ユーザーには不便さが押しつけられている。べつにTwitterでもMastodonでもdiaspora*でも、更新されたコンテンツを効率的に閲覧できる仕組みがあればいいだけなのに、「市場でのシェア争い! 次のプラットフォーマーになるのは誰だ!?」という言葉にまどわされて本質が見えなくなっている。マイクロソフトを倒してもGooleが覇権を握り、Googleが倒れてもまた別の企業が市場の覇者になるのでは困る。そのへんがもうちょっと自由になるといいのだが、反対に企業はサービスの囲い込みに向かっているので不満なのだった。


・Wall Gardenのインターネット

企業サービスに囲い込まれて、インターネットが不自由になっている。「知り合いと連絡を取りたいですか? Facebookに実名を登録してください! Lineの認証には電話番号の紐付けが必要です!」という、アカウントと個人情報を結びつけるサービスが常態化しているのを快く思っていない。
インターネットを利用しているのでは無くて、企業サービスの中で飼われている。SNSにはマストドンなどの分散型の代替サービスがあるのだけれども、あまりにもユーザー数が少ないので、市場を独占している企業サービスを使わざるを得ない。見せかけの選択肢は多いが、実際にはひとつしか選べない状態が窮屈で仕方が無い。
ブログやメールアドレスみたいに異なった企業がサービスを提供しているのではなくて、一つの企業が一つのサービスにユーザーを囲い込む。Twitterはマイクロブログのひとつではなくて、もうTwitterという巨大なコミュニケーション圏になってしまったし、Facebookも同様だ。同じサービスに登録しない限り、内部にいる人と交流できないというのは、インターネット独裁だと思う。けれどもそれに対して異議を唱える潮流が全くないものだから、企業サービスに屈しなければならなくなる。Facebookは嫌いだが、知り合いと連絡を取るために使わざるを得ないという状況に追い込まれる。これは自由とは正反対だ。
インターネットはもっと自由であるべきだ。好きなサービスを好きに選んで、好きにハイパーリンクを張る。国内法が嫌なら海外サーバーにデータを置けばいいだけだ。企業サービスが嫌なら自分でサーバー立てて運営するよ……という独立独歩の精神がインターネットだと思っていたのだが、そういう時代では無いらしい。
羊みたいに柵の中に囲い込まれて、企業サービスを使わざるを得ない。検索がノイズまみれになって役に立たなくなる。ユーザー数の多いSNSが一人勝ちする。企業のシェア競争に巻き込まれて、不当にユーザーの自由が奪われている。ネットを利用しているつもりが、いつの間にかサービスに縛り付けられている。不満を覚えても、それ以外に選択肢が無くなっているから、使わざるを得ない。代替サービスはあるけれども、使い物にならない。
インターネットの自由というと政府による言論統制やトロルによる荒らしなどを連想してしまうけれども、言論の自由だけが自由のありかたではない。現実に住所移転の自由があるように、使うサービスを変える自由もある。オンラインでの活動が不当に制限されない自由もあるし、サービスを利用するときに個人情報の提供を拒否する自由があってもいいと思う。
自由になるためには自分が何に拘束されているのか。その結果としてどのような不利益を被っているのかを認識する必要がある。が、まだ「他に選択肢が無いから仕方なくこのサービスを使う」という段階に止まったままでいる。


・プライバシーのない世界で。

個人情報を売り渡して、自分たちがIT企業の商品になっている自覚があまりにも欠落しているので、「まあ便利だし、無料で使えるからいいじゃん?」という意見も出てくる。けれどもそれは危険なことだ。
私は誰なのか? 誰とどのような交友関係を持っているのか? 電話帳のアドレスには誰の電話番号が保存されているのか? 今、どこにいるのか? 一日の行動範囲は? どの単語で検索したのか? 何に興味を持っているのか? 性的指向は? どの政党を支持するのか? 収入と購買行動はどのような傾向か? 性格は? 書いた文章を分析してどの程度の知識や教養があるのか? 推定される言語IQは? 何にコンプレックスを持っているのか? 人種は? 信じる宗教は?
……といった「私が何者であるのか」という個人情報を、絶え間なく企業に送り続けている。時と場合によっては国家権力が閲覧できるようになるかも知れない。「電話帳をアップロードして、友達を探しやすくしよう!」と「テロリストとの交友関係が無いかどうかを調べるために、Facebookや企業が保存している個人情報を国家権力が利用する」という出来事は地続きになっている。
どういう風にプライバシーをコントロールすればいいのかという問題意識が無いまま、個人情報が収集される。情報技術の発展にリテラシーが追いついていない。その空隙を突くようにして、抑圧的なもの、自由を奪うもの、プライバシーを侵害するものが日常生活に入り込んでくる。
悲観的な見方をすると、僕たちのプライバシーは徐々に蝕まれていく。たとえば、政府に批判的なデモの映像から、顔認証技術を使って参加者をリストアップすることは技術的には不可能なことでは無い。それがデータベース化されて、就職活動のときなどに「この応募者は三年前のデモに参加しているようです。採用はやめときましょう」といった判断材料にされるかも知れない。
このぐらいプライバシーや自由が侵害される社会がやってきてもおかしくないと思っている。問題は個人情報が収集されるリスクをあまりにも低く見積もっていることだ。


・言葉の性質が閉じたものになっていく。

Facebookなどのサービスは「壁に囲まれた庭(walled gardens)」型と言われていて、登録しているユーザー以外にはコンテンツが見えない。
日頃、自分が見聞きする言葉の種類が、閉じたものに変わっていくような感覚を覚える。自分と同じ価値観を持った人を囲い込んで、小さな箱庭の中でだけ通じる言葉を使う。違和感を覚えずに、耳障りのいい言葉だけを好んで聞く。フィルターバブルに埋没している中で、自然と閉じた言葉を使っていることに気がつかない。
ハイコンテクストで、文脈を理解するための情報が必要で、コンテンツの内容を理解するためには、小さなコミュニティのメンバーにならなければならない。壁に込まれた庭の中で、自分たちだけの言葉を喋る。
その言語運用の行き着く先は「あなたは私の言葉を理解しなくてもいい」だ。同じ価値観を共有している人間以外にはわからなくていい。理解できなくて当然だ。そういう風に喋っているのだから仕方が無い。不快に思うのなら、ブロックでもフィルタリングでもすればいい。
でもそれはオープンなインターネットでは無いな? よくホームページを開設すれば世界中に情報発信ができるとWindows98が主流のOSだったころには耳にたこができるほど聞いたのだが、インターネットのアーキテクチャーが、開かれたものであることを要求していた。
ブログをするうえで「情報にアクセスするのに、特別な資格はいらない」ということを意識している。ログインしなければ読めないとか、フレンドにならなければならないといった制限はない方がいい。万人に開かれた場所で、開かれた言葉を使うのがWWWだ。……というのは理想論かも知れないけれども、閉じた言葉が好ましいことだとは思わない。