・アテンションの過剰消費でインターネットは回る。


・フラット化する情報とアテンションの過剰消費。
新聞の場合には直感的に情報の軽重を判断できる。情報が一面に載っているのか、三面なのか、大きさはどの程度か、文章は長いか短いかを指標にして情報のプライオリティがつけられている。雑誌なら特集記事やコラム、読者投稿欄、ニュース映像であればヘッドラインや速報などによって、重要な情報と些末な出来事をある程度区別できる。
一方、ネットでのニュースは見出ししか表示されないので、情報の軽重がフラットになってしまう。一面のトップニュースも三面記事と同じ扱いになり、数少ない指標がコメントやブックマークの数、SNSでバズっているかどうかぐらいしか重要性の指標がなくなる。
情報の軽重がフラットになると同時に、一覧性もなくなった。書籍であれは、目次やパラグラフの構成、見出しなどによって文章の構造を把握できる。がマイクロブログやSNSでは情報が細切れになってしまう構造上の欠陥を抱えていて、まとまった情報を得るためには、多大な労力を消費してしまう。
情報の総量は増えた。だが見出しもない。構造もない。重要性が高いかどうかもわからないフラットな情報が絶え間なく流れ続けている。 情報を得ることは簡単になったけれども、得た情報の価値を理解したり、全体像を俯瞰するのは逆に難しくなっている。
この構造は、人間のアテンションを過剰に消費する。
以前であれば、一週間か一ヶ月に一度、パッケージ化された情報をチェックすれば十分だったものが、いまではスマホやPCの前に張り付いて最新情報にキャッチアップしていかなければならなくなった。

・注意力(アテンション)争奪地獄に巻き込まれている。
情報の受け手だけではなくて、供給側もアテンションを争奪する市場に巻き込まれている。
コンテンツの供給量に対して、人間側が支出できるアテンションや時間、労力は有限だ。このアテンションという希少な資源を互いに奪い合っている。
ネットはテレビに比べると視聴率に振り回されなくてもいいから、より本質的でクオリティの高い情報を手に入れられると言われていた時期もあるが、実際には注意を引きつけなければクリックすらされない。クリックされないものはどんなにクオリティが高くても存在しないに等しい。
ネット上で存在感を得るためには更新サイクルを早くして、ユーザーを注意力を引きつけることが要求される。収益や金銭の取引以前の問題として、注意を引くこと、存在を認知させることに多大な労力を費やさなければならなくなった。

・低アテンション消費のインターネット
仮想通貨を維持するためには、取引が改ざんされていないか確認するために高度な計算と電力を消費する。それと同じように、インターネットを維持するために、私たちのアテンションと時間を食いつぶすようにして今日のインターネットが成り立っている。その環境は不健全なものだと感じている。
家電が低電力になってエコロジーに配慮しているように、ネットも低アテンションなメディアや価値観が必要だ。それは広告を見せて収益を得るというビジネスモデルとは真っ向からぶつかり合うものだけれども、そっちのほうが人に優しいインターネットになる。
現在のSNS、マイクロブログ全盛のインターネットはあまり好ましい場所ではない。マストドンなどの非中央集権型SNSは理念としては好ましいのだが、アテンションを過剰に消費するTwitterの設計を引き継いでしまっている。
「低アテンション消費のインターネット」は、いままでよりもスローペースで、ゆったりとした時間が流れているものだと思う。
ゼロ年代のインターネットに流れていた時間感覚はゆるやかだった。ブログの記事を書いたらすぐさま反応があるのではなくて、ぽつぽつとブックマークがつき始めて、何日かしたあとにニュースサイトやはてなブックマークなどに取り上げられて、それから多くの人がやってくる……というような、非常にゆったりとしたものだった。
過去を懐かしむわけではないけれども、いまは情報更新のスパンも飽きられるまでのスピードも速すぎると感じる。
月刊ペースだったものが日刊になり、日刊が朝夕になり、一時間置きになり、最後には分や秒単位の更新サイクルになる。そのことで情報の質も密度も下がっていって、受け手も発信側も疲弊するのは互いにとって不幸なことだと思う。
今のネットは情報処理に消耗してしまって、人間に優しいインターネットとはほど遠い。
その中でものんびりまったり、スローペースでやっていきたいものです。