・『亜人(デミ)ちゃんは語りたい!』、『放浪息子』、ホワイトリスト的寛容性、多数派の恩寵としての理解。


・『亜人(デミ)ちゃんは語りたい!』感想文というタイトルの人生が辛かった日記

 別に自慢でも何でも無いのだが、言語IQが116ぐらいで記号処理IQが127ぐらいある。高校を中退するときにも知能指数が120ぐらいあるから辞めるなと言われたのだけれども、簡易的な知能検査で計測できないジャンルが壊滅的に駄目だった。後に成人知能検査を受けたときに、聴覚から入ってきた情報を処理する機能が軽度知的障害すれすれで、短期記憶が弱いことが明らかになった。
 発達障害のひとは知能のバランスが悪いのだ。
 長時間座って人の話を聞いていなければならない授業が本当に駄目で、耳に入ってきたことがらが反対の耳からすり抜けていく感じがある。やる気が無いと言うよりも、脳の構造的に不可能だった。この世界が俺以外の正常な人間向けに作られているような気持ちにもなる。  でも聴覚では無くて視覚情報を中心にした勉強方法に切り替えたら良かったよ☆ 問題はそれをあと十年早く教えてもらえば良かったんだけど……。
 そんな感じのアンバランスな脳みそを持っているので、亜人(デミ)ちゃんは語りたい!を見ると涙が出てしまう。このまんがの世界はファンタジー障害者が適切に配慮されている。そのため、「亜人でもここまで人権が配慮されるというのなら、おれは何だ? 人外か? 非人間か?」……としばしの間、思い悩んでしまった。

この作品で一番の空想生物はバンパイアでも雪女でもデュラハンでもなく、理解力のある落ち着いた大人だった。
 デミちゃんの世界を見ていると、首が取れたり、日光に弱かったり、熱いものが駄目だとというのは欠点では無いように思える。周囲の環境や人間がそれを疎ましいものだと思ったり、本人が生まれ持った性質に後ろめたさを覚えた瞬間にそれは障害になる。
 デミちゃんも最初は亜人であることの悩みと社会適応についてのエピソードが多い。でも巻が進むと別にデミちゃんである必要性が無い話も増えてくる。登場人物が普通の高校生として、普通の日常を送ることがこのマンガのゴール地点だ。
 発達障害も一般人に比べて劣った生き物みたいなニュアンスがあるから、デミちゃんみたいな呼び方ないかな。まず障害という字面がえぐい。発達障害という文字も脳かたわとか知能奇形児という表記と似たようなものだ。もう健常者じゃ無いからデミちゃんでいいだろ。ラテン語でdīmedius(中央から外れている)という言葉が語源だし。おれがデミちゃんだ!


・『放浪息子』――どうしてあなたに理解できるように説明する義務が、私に生じるのか?

LGBTを理解しよう、日本で暮らす外国人の文化を、発達障害を、聴覚過敏を、病気を、社会的ハンディキャップを、性的少数者を、自分たちとは異なった人たちを理解して、寄り添いましょう……という言葉をよく聞くけれども、理解のキャパシティが足りるのかどうか不安になってしまった。
理解しましょうという言葉だけが先行して、結局理解が根付かないままになるような気がして、それは結局無視しているのと違わないのでは無いのか。
「別に理解してもらわなくてもいいし、寄り添わなくてもいいのだが、いちいち余計なことで口を挟んでくるのはやめろ」という気がしないでも無い。べつにおまえに理解して欲しいわけでは無くて、なんでおれが骨を折っておまえたちに理解してもらう努力をしなければならないんだ。ちくしょう!という気持ちを抱く。
身体が欠損している肉体障害者がうらやましいよなーと思うときがある。別に説明してもらわなくても欠落を理解してもらえる。欠けている部分が目に見えるから、わざわざわかってもらう必要が無い。それとバリアフリーが配慮されるかどうかは別問題なのだが……。
でも成人知能検査を受けた結果、ある特定の分野に関する知能指数が知的障害者すれすれのレベルで低いです、というのはすぐには理解されない。おれが発達障害の診断を受けたときには、医者は「思い込みかも知れないけれどとりあえず検査の予約はしておくね。最近そういう人が多いからさー」オーラを全快にしていたのだが、検査結果を見たら「まちがいなく発達障害だね」と言った。検査で客観的な結果を叩きつけない限り、専門医にもそれっぽく見えないのだとしたら、おれはいったいどうしたらいいんだ……。
『放浪息子』という名作漫画で、女装癖のある男の子が女子の制服を着て登校するシーンがある。女の子が学ランを着て登校しても問題にはならないが、男が女子の制服を着るのは異常視される。それで職員室に連行された主人公が、教師に「なんで?」と理由を尋ねられる。この「なんで?」という言葉が嫌いだった。なんでおれがおまえに理解されるように、自分が置かれている環境を説明しなければならないのだ。どうしておまえに納得されるように話さなければならない義務を担わなければならないのだ。なんでおれがおまえに……という気持ちでいっぱいになってしまった。
精神科医が代わるたびにいちいちいちいちいちいちいち自分が置かれている状態や困っていることや配慮して欲しいことを「理解してもらう」ことがストレスになる。じゃー、もう理解されなくてもいいや☆勝手に死ぬか、そのうち刑務所のお世話になるか生活保護を受けるからよろしくね☆……という投げやりな気分になっている。
『亜人ちゃんは語りたい』というまんがには羨望のまなざしを向けている。何がうらやましいのかというと、困っていることがわかりやすいからだ。首が取れたり、雪女だったり、ヴァンパイヤだったりする。ただサキュバスだけは、人を催淫しないように人里離れた場所で暮らなければならないことが多いので、見た目の割にはしんどい障害だと思った。
「理解してもらう」というコストをなんで自分一人が背負わなければならないんだ、ころすぞと思っていて、何から何まで自分でやらなければならない。理解するとか寛容とか寄り添うとか、お気持ちの問題はどうでもいいので金だけよこせ!それが理解だ!という気にもなる。


・ホワイトリスト的寛容性について。

「障害者やLGBTを差別してはいけない。私たちと変わりの無い人間なのだから、日本社会の成員として受け容れなければならない」という言葉には違和感を覚える。
「このマイノリティは悪いやつでは無いので、日本社会のメンバーとして受け容れてもいい」というホワイトリスト的な発想で少数派を受け容れる。 その態度があまり好きでは無い。 異質なものが疎まれるのがデフォルトになっていて、新しいマイノリティが現れる度に多数派にお願いをして、ホワイトリストに追加してもらわないといけない。
「理解すること・されること」に対して違和感を持つのは、あくまでもそれが多数派に嘆願する行為でしかないからかも知れない。マイノリティが固有の権利を行使して社会に居場所を作るのではなくて、多数派が受け入れるかどうかの決定権を握っている。あるマイノリティの権利が認められたのではなくて、たまたま多数派の許しを得ただけに過ぎないのでは?と考えることが多い。

もし仮に多数派の許しを得ても、「ただ存在していること」を許容されただけで配慮がなされないこともある。同質性を前提とした社会設計なので、異質なものを受け容れる余地が少ない。多数派で正常な人のために制度が設計されている。障害物は多いし、建築物は男女別に分かれている。
それを無視して、「マイノリティを受け入れたのだから、不便なところがあっても我慢するべきだ」という態度を押しつけるのは欺瞞に思える。
「女性同士の結婚? うん、私は応援するよ! 性的指向は自由だよね! 日本は女性の賃金格差が激しいので、女性同士のカップルは経済的に困窮する場合が多いから支援して欲しい? でも自分たちで選んだんだから、その辺は我慢しなよ」みたいなのはダブルスタンダードだと思う。
差別意識を無くすだけでは不十分で、制度自体を変えないと差別を撤廃したことにはならない。 「○○(新しいマイノリティー)を理解しよう! 社会に受け容れられるように手を差し伸べよう!」という言葉に感じる違和感は、結局はそれが多数派が少数派に与える恩寵だからかも知れない。その一方的な恩寵に対して、理解や寛容性、多様性といった言葉をまぶしてる。