・アスペルガー症候群的人格拡散スタイル。


自己の流動性は、自閉症スペクトラムの人に多く見られる現象です。本書に登場する自伝作家の全員、それに小説の作家の多くも、流動的で可塑性のある自己という感覚をもっています。
私が教えているASの学生のひとりは、約10種類のアイデンティティをランダムに使い分け、そのことを“世間に向ける鎧の交換”と呼んでいます。(p231)
『作家たちの秘密: 自閉症スペクトラムが創作に与えた影響』

まず念頭に置いて欲しいことがひとつだけある。私は明確な自我観念が乏しい。これはアスペルガー症候群に特徴的なもので、自分が何者なのかという感覚が流動的になるというものだ。とくにメインパーソナリティとなる自我観念が無いので、エントリごとに人格を変えられるブログ形式で文章を書くのはここちよい。書く文章に合わせて自我をその都度でっち上げるつもりでやると、楽に文章を書ける。ただし人間としての一貫性は保てなくなるので、文章ごとに人格やパーソナリティが揺れ動く場合もあるし、場合によっては一つの文章中でも一人称やキャラクターが変わる。
そういう事情があるので、アイデンティティ不詳問題については大目に見て欲しい。
自我を固定するよりも、アイデンティティ拡散を極めた方が好ましいのでは無いのかと思っている。ただそれを追求するとなると、人間不詳に拍車がかかり、いまよりももっと得体の知れない生き物になる。それもやむをえない。


・アスペルガー症候群的人格拡散スタイル。

・このブログはアスペルガー症候群的人格拡散スタイルで運営している。
詳しくはこの辺の記事がわかりやすいので一読をお勧めする。ただ、「自分の輪郭が曖昧になってく感覚」が一般的な人間にとって理解できるものかは判断ができない。

解離型ASDの人たちは自己認識があいまいで、自分を統合されたひとまとまりの自己と感じるのが苦手であり、その反映のひとつが、周囲世界に容易に溶け込んで消滅してしまうかのような不安を伴った「拡散」体験なのです。
https://yumemana.com/labs/dd-asd/#4

人間の多くは、「一貫性のある、確固としたひとつアイデンティティー」らしきものを持っているらしいのだが、その感覚がいまいち理解できない。自分のなかに取り替え可能なパーソナリティの断片が複数存在していて、「私」「おれ」「僕」「あたい」という風に分化している。
「私」という一人称を使って思考しやすいと思ったときには「私」を使うし、「おれ」というパーソナリティではないと書けない文章がある。その辺を無視して一つのパーソナリティに自分の役割を固定しようとすると、自分の70%ぐらいが壊死してしまう感覚になる。
「私」や「僕」を一人称にして書く文章はわりと常識的な感覚を重視して、ものごとに対して数歩ほど距離を置く。「おれ」の場合は欲望に忠実なので脈絡も無くマゾ向け同人音声の話をする。「あたい」は言葉のエッジをやらわげたいときにときどき出てくる。「私」も男性的な「私」の場合もあれば、中性的な一人称として「私」を使う場合もある。
それらの一人称で表現できるパーソナリティの傾向が完全に分離されているわけではなくて、「私」が70パーセントで「おれ」の成分が50パーセントぐらいだったり、そのときの気分や書く文章の内容によって変動する。
そのような事情があるため、キャラクターだったり人物像を一人に固定するという行為がいちじるしく難しい。
以下は「私」の成分が多めの時に書いた文章だ。

・狂信者のロールモデル

思想や信仰を盲信した結果として極端な言動に走る人ばかりが取りざたされるせいで、良識と落ち着いた態度を持っている信念の人が見えなくなる。宗教の教義を盲信して過激な主張をするようになったり、あるイデオロギーに感化されたせいで暴力も辞さなくなる。あるいは社会正義に固執するあまりに性急な手段で理想を実現しようとする。
そういう人たちの方が目立つし、馬鹿にもしやすい。その裏で、確固たる信念を抱きつつも、良識があって落ち着いた態度で活動にコミットしている人たちは大勢いるはずなのだが、目立たなくて表には出てこない。
ヒステリックな左翼や良識を欠いた保守、偽科学に騙されているビーガン、非合理的な行動をする環境保護主義者みたいな、「正義を盲信して、頭がおかしくなってしまった人」という戯画化された人物像を消費して、信念を抱いている人を異常者として遠ざける価値観に慣れ親しんでいる。
節度を保って信念を抱く。そのロールモデルが欠落しているから、完全な無関心か、狂信者的なコミット以外に選択肢が無くなる。
社会正義や正論を声高に叫ぶ人たちの言動に対して、私たちは生理的な嫌悪感を抱く。それは一度でもある価値観を受け入れてしまえば、カルト宗教の一員か、ショッカーの構成員のような生き方しかできなくなるという恐怖に根ざしている。
思想や信仰に善悪があるのではない。節度を保ったコミットメントと、思考を放棄して盲信するコミットメントがある。節度を保って信念を抱くというロールモデルが私たちには欠落しているから、どのような種類の思想や信仰、社会正義も、盲信する以外の選択肢が思い浮かばない。
その色眼鏡を通して他者を見ると、何かの信念に従事している人が狂信者のように見える。もし他者がある価値観を盲信しているように見えるのだとすれば、それは自分の中に狂信者以外のロールモデルが無いということの自白なのかも知れない。

……という比較的落ち着いた内容の文章を書くのが「私」で、下記の文章は「おれ」成分が多いものだ。

・ボイスチェンジャー受肉日記

ボイスチェンジャーで声を変えて美少女ごっこをしていたらなんか楽しくなってきて、「わんちゃん、ちゃあんと言うことを聞いてお利口さんにできたら、ごほうびをあげますよぉ。ほら、仰向けになって、前に付いてるわんちゃんのしっぽを、ご主人様によく見せてみましょうか? はい、わんちゃん。よくできましたねー、えらいえらい。よちよち。それじゃあ、わんちゃんにはご褒美を上げましょうね。わんちゃんはこう言われるのが好きなんですよね?
この、ド変態の、ま、ぞ、い、ぬ、さん♪ あはっ、あはははははは」
……というような内容のボイスを自分の声で喋り、自分の耳で聴くという一種のウロボロス的経験をしていた。
バーチャルYoutuber文化になじみが無いので、必然的にマゾ向け同人音声のようなしゃべり方になってしまう。いや、私は美少女ボイスを習得して自分の声でマゾ向け同人音声を収録することを希求している。その絶望的試みが生み出した奇形の美少女ボイスだ。
ボイスチェンジャーの遅延をカバーするために、ゆっくりと穏やかに喋ることで天然美少女っぽい雰囲気を出していたのだが、ゆるゆるしたしゃべり方と、言っていることの間にギャップが発生して、脳内麻薬が出まくる。
その後は全寮制女学校・中等部の生徒がネットラジオをしているという設定を即興で思いつき、耳元で囁くような言葉で「だいすき♪お・ね・え・さ・ま」と口にしていた。
我々の最終目標はおっさんだけで全寮制女学校の生徒になり、おっさんだけでガールズトークをして、おっさんがおっさんと「だめ……誰かに見られちゃう……」と囁きながら、放課後の教室でキスをすることだ。
おれはおっとりタイプのマイペースな女の子であり、あとは元気溌剌な子と、感情表現が薄いクールタイプの子がいればおれたちは最強になれる!


……というような文章を書くのが「おれ」だ。
録音した音声を聞き直してみると、そこまで美少女ボイスでは無かった。脳内麻薬により意識が高揚状態になり、自分が可愛い女の子だと思い込んでいるだけだった。女の子ボイスを手に入れるには鍛錬を積み重ねなければならない。かわいいガールへの道は遠い。

人格内にキュアホワイトとキュアブラックのような相反した要素が併存している。完全に分離しているわけでは無くて、「おれ」と「私」のバランスが変動する感覚だ。両者が区別できなくなるまで混じり合い、そのどちらでもあり、どちらでもない状態になる。
どちらかと言えばプリキュアというよりも、X-Menシリーズのミュータントや、仮面ライダー555のオルフェノクの方が近いのかも知れない。人間に擬態している異形の化け物に感情移入するし、ダークナイトではジョーカーに感情移入して大爆笑したり、人々が良心に従って悪への誘惑を回避したときには「チッ……」と舌打ちをしたし、だいたいのホラー映画は殺人者目線で観る。
そういうパーソナリティー上の特性があるので、どちらかを抑圧せずに文章を書いている。始めはこのブログも「私」と「おれ」でそれぞれ異なったキャラクターに分割しようと思ったのだが違和感があった。
インターネット上で取っつきやすい人間になるためには、一面的なキャラクターになる必要がある。どのような言動をするのか予想しやすく、ある特定のキャラクターのロールプレイに徹する。
そうやって他者にわかりやすいキャラクターを演じることで、人格の可動範囲が制限されていく。自分のキャラとは異なるから、言うべきでは無いことが増える。相手が期待するように喋り、誰かが望むように行動するようになったときに、矛盾を内包している生きた人間が、一貫性のあるだけの死んだキャラクターになる。
そのロールプレイを足蹴にして、矛盾した言動をし続けるというスタンスを取っている。