死者への鎮魂歌としての大東亜戦争について


大東亜戦争において日本は、アジア独立のために欧米の植民地主義と戦った。御国のために戦った英霊たちの犠牲の上に、いま私たちが暮らしている日本が築き上げられている。それが保守的な歴史観であり、リベラル側からは歴史修正主義として批判されるものだ。
理性的なリベラルや唯物論者の世界観には、死者の魂は存在しない。合理的でも科学的でもないからだ。祖先の霊が祟るという観念は、古い迷信だと思ってしまうのだが、人類社会には「死者の霊を適切に鎮魂する」という土着の文化がある。死者が安らかに眠れるような鎮魂の儀礼をないがしろにすれば、それは荒御魂(あらみたま)と化して子孫に害をなす。鎮魂の儀礼によって死者の魂を弔い、祟りを起こさないように鎮める。死者の霊を鎮魂するのは、古代から綿々と続く日本の霊的伝統だった。
日本の霊魂観については、『天皇と葬儀―日本人の死生観―(新潮選書)』が詳しい。祟りや穢れに対して日本人がどう対応していたのかという、一種の呪術ファンタジー的な読み応えがある。
死者を鎮魂する方法の延長線上として、「大東亜戦争は聖戦だった」という歴史観があるのではないのか。

死者が祟りを起こさないために、「大日本帝国がやったことは正しかった。あなたの死は無駄ではない」という物語を語り続けることで祖霊を鎮める。歴史修正主義的な価値観と言われているものは、リベラル側が考えているような無教養なものではなくて、死者を鎮魂する目的のものだと考えた方が妥当ではないのか?
第二次世界大戦の戦後処理には、政治的ソリューションと霊的ソリューションの二つがあるはずだった。政治的ソリューションは「戦前の独裁体制と決別して日本は民主主義国家として生まれ変わった」という物語を受け入れることで、ある程度解決した。その一方で、死者の霊を鎮めるための霊的ソリューションはなおざりになった。
大日本帝国が行ったのは侵略戦争であり、各地で人権侵害を繰り返し、徴用工や慰安婦を酷使し、遠方の孤島で戦うこともままならず餓死した。その犠牲を支払ったのにも関わらず敗戦して、GHQによる占領統治を受け入れた。
それが客観的な歴史的事実として正しいものだとしても、死者の魂を鎮められるものでない。大義のない戦争に巻き込まれた上に、無能な上層部の犠牲になって、ろくな成果も上げられずに犬死にになった。
その事実をそのまま祖霊に対して突きつけるのは、政治的には正しくても、鎮魂の作法としては適切なものではない。
右翼・保守的な言説は、死者の鎮魂を重視するあまりに、現実や歴史観を歪める。その一方で左派・リベラル的は、霊魂の話を荒唐無稽なものとして退ける。
戦後民主主義の社会では真面目に霊魂の話ができなくなった。鎮魂や、祖霊や祟り、死んだ後にどうなるのかという価値観が、前近代的な迷信に貶められた。その中で「死者の魂を鎮めなければならない」という義務感は、政治思想と混じり合い、区別ができなくなった。
自分たちに欠けているのは、死者を弔う方法のリテラシーだ。死者の声を聞く、死者に語りかける。死者の言い分を聞いて、死者の要求に応える。死者は言葉を発しないから、言葉が通じていない状態でコミュニケーションを成り立たせる。
その方法論を忘却してしまったから、生者に都合のいい方法で死者を扱ったり、時には死者を腹話術の人形のように操って、自分の意見を語らせる。反対に魂の存在を否定して、人間は死ねばただの物質に戻ると信じる。
死者の魂が存在することにリアリティを感じて、礼儀正しく向き合う。合理主義的な価値観では納得できるものではないのかもしれないが、死者の魂を想定する文化のほうが民主主義よりも長く続いてきた。
死後の世界は無く、魂も存在しない。心だと思っているものは皆、脳の中で起きる生理的な反応の産物に過ぎない。その言説が科学的に正しくても、これまでの文化は魂や死霊の存在を前提にして営まれてきた。
ホモ・サピエンスとそれより以前の人類の間で決定的に異なっている風習が、死者の供養であると言われる。ネアンデルタール人がどうだったのかまでは思い出せないが、猿には葬儀という概念がない。猿の子供が死んだあとにも親はそのまま死骸を抱き続ける。それが腐り果てて原型を止めなくなり、我が子だと認識できなくなったあとには物質として投げ捨てる。
アジアを植民地支配から解放するために日本は戦ったとする歴史観は、政治的なものであると同時に「死者に手向けられた鎮魂の物語」としても機能している。憲法9条も鎮魂の物語性を持っているのだけど、リベラルの世界観は死者の霊が存在することを前提に作られてはいない。生きている人間の世界だけの範囲に限られている。
それに比べると戦前の天皇制や国家神道は、生前から死後まで包括的に扱っている。歴史と連なる感覚も、国家と一体になる快楽も、死後の安楽も、すべてがパッケージ化されて提供される。それは非合理的で時代後れの独裁体制なのかも知れないけれども、戦後民主主義国家が満たせないニーズを満たしてくれる。
リベラル派はその機能を過小評価している。宗教の教義や迷信を捨て去ることで合理主義と科学が育まれたのだけど、その過程で死者の世界や非合理的なものを丸ごと切り捨ててしまった。合理主義だけで満足できるほど私たちは強くないから、科学が迷信として退けたものの空隙に、商業主義的スピリチュアルや陰謀論、アイデンティティーを保証してくれる過激な政治思想やカルト宗教が入り込む。
死者をないがしろにすることで祟られている。それは非理性的な言説だが、そう言っても差し支えがないのかも知れない。