右翼の原風景


大昔に小林よしのりの『ゴーマニズム宣言戦争論』を読んだときに、公的なものに自分が接続される感覚を抱いた。「お前は自分の身の安全や、卑小な利益ばかりを追求していて恥ずかしくないのか。エゴイズムの殻を打ち破って、他者の幸福のために自らを犠牲にする。それが誇り高い日本人としての生き方ではないのか?」という声に呼びかけられるとともに、神風特攻隊を媒体にして、途方もなく大きな物語のひとつに自分が接続したような気持ちになった。長い歴史を形作る礎になる。無駄な死は何一つとしてない。そう心の底から信じることで、自らの魂を不滅にできる。自分にとってそれが右翼の原風景だった。
そのままネット右翼になったわけではなく、同時にナニワ金融道とか青木雄二のコラムを読んでいたので右翼要素と左翼要素が良い感じに中和されてしまった。よく右翼にならなかったな、と思ったけど政治的にはこじらせているかも知れない。
それでも、少なくとも右翼という人種は「祖先から見て恥ずかしくない生き方ができているのか? 誇り高い言動だと胸を張れるのか?」という内なる道徳律に従って生きているのだと思っていた。

リベラルや戦後民主主義が憲法や人権などに縛られているのと同様に、右翼は祖先の眼差しを背負う。自分の背後にバトンを手渡してきた何百人、何万人、何千万もの祖霊がいる。彼らの目から見て、恥ずかしい生き方はできないという、生き方の問題だと感じた。
でも何故か、ゴーマニズム宣言戦争論的なものは左翼と民主主義バッシングするための材料になった。弱い人間を嘲笑して、権力関係を盾にハラスメントをして、権威主義や排外思想、ヘイトスピーチ、ファシズムと親和性の高いものが「右翼的なもの」と呼ばれるようになった。
エゴイズムの殻を打ち破る美徳は、都合のいい従順な労働力や部下を確保するための手段になった。忠孝の美徳が説かれても、逆に君主たるものはどうあるべきかという話は少ない。道徳律を欠いた従順さだけが求められている。
最初に「大きな物語に接続する一体感」について触れたけれども、いまのネットで流通している右翼的なものは、思想や歴史から気持ちよくなれる要素を取り出して、わかりやすく味付けしたものになっている。小林よしのりが精製したものを、更に百田尚樹あたりが口当たりのいいものに加工して右翼思想のストロングゼロにした。日本的なものと接続して、一体感と快楽を効率的に味わうためのシステムになった。
歴史や伝統を重んじるように振る舞いながら、過去を都合よくねじ曲げる。日本人の美徳と文化を称えると同時に、外国人を侮蔑する。自己責任の名の下に弱者を切り捨てて、経済効率だけを追い求める。それが右翼的だと思われているけれども、右翼の皮を被って擬態した、何か別のまがまがしいものであるように思う。
もし自分が本格的な右翼になるのだとすれば、「自我の放棄」をコンセプトにして東洋哲学的アプローチを採用するような気がする。老荘思想とか禅などをベースにして、西洋的な自我やキリスト教的世界観、資本主義とバランスを取っていく。自己の放棄というと全体主義や国家主義、自由からの逃走みたいなものに結びつけがちだけど、国家や経済にとって都合のよい自我の放棄ではない。
他者があって自分が存在して、自分がいるからまた他者も存在する。個人という概念はないけれども、情けは人の為ならずを行動基準にしている。「個と他」が分かち難く結びついたような考え方だ。
自然と人間を切り分けて、さらに人間を個人を分割していくというのが西洋の思考であるとすれば、自と他の間にある境目を消し去っていくのが東洋の思考だ。
近代的な合理主義で歪められてしまったものをひとつずつ取り除いていって、自と他だけではなくて、自然それ自体と調和するような東洋精神を追求する右翼になるんじゃないのかな。