・まんがとアニメのヒューマニズム


日常系萌えアニメはただのオタク向けの低俗な娯楽ではない。手塚治虫から連なるまんがヒューマニズムの正統な後継者だ。そこで描かれているのは単純な勧善懲悪やイデオロギーでは無くて「この一線を越えたら人間では無くなる」という境界線にまつわる話だ。人間と非人間的なものの間に絶えず境界線を引き続ける行為がまんがヒューマニズムであり、戦後民主主義の価値観を底流から支えてきた。
鉄腕アトムの原動力は原子力で、鉄人28号は旧日本軍の秘密兵器だ。それらの技術は利用する人間の意思によって善にも悪にもなる。仮面ライダーの身体は悪の組織によって改造されたが人間の心が残っているし、デビルマンの人間は悪魔以上に邪悪な存在になる。
仮面ライダーに関しては初代の改造された身体では人と触れ合うこともできないという悲哀と、555のオルフェノクが抱える苦悩と、アマゾンズの人間と怪人側の間の葛藤が好きなのだった。悪のために生み出された力を正義のために振るい、あるいは理想と正義のために生み出された力が人間を不幸に陥れる。その二つに境界線はなく、心のあり方次第でめまぐるしく変わっていく……という展開が個人的な特撮ツボであり、まんがヒューマニズムの主要なテーマだと言える。
プリキュアは絶対に「みんなの笑顔は私たちが守る! でも特定アジアだけは別!」とは言わない。もしそんなことを口にすれば、それはプリキュアでは無い。その皮膚感覚を涵養するのがまんがヒューマニズムであり、萌え豚向け日常系美少女アニメはその最新形だ。

2019年夏アニメ『まちカドまぞく』では魔族と魔法少女が争い合っているのだが、新人魔族・シャドウミストレス優子(以下シャミ子)は敵対する魔法少女である千代田桃を助ける。風邪を引いていて寝首を掻ける絶好のチャンスにもかかわらず、シャミ子は桃を介抱する。魔族としてのあるべき姿では無くて、シャミ子自身がどうしたいのかという欲求を行動の判断基準にしている。
オウム真理教の信者だった人へのインタビューが書かれた本を読んでいると、「サリンを撒く前にさすがにおかしいと思ったが、教祖の支持に従うことを選んだ。自分の良心を信じれば良かった」というようなことが書いてあった。
監督の支持に従って相手のラグビー部に怪我を負わせたり、公文書を改ざんしたり、ユダヤ人をガス室に送るなど、私たちには理性や良心よりも組織の都合や権力者の命令を優先するような性質が内蔵されていて、時代と環境が変われば容易に非人間的な行為に手を染めてしまう。
政治的イデオロギーや宗教の教義はしばしば、「この一線を越えたら私は人間では無くなる」というラインを軽々と飛び越えさせる。内なる良心の声を圧殺して、邪悪さの片棒を担がせる。そうならないためには"誰よりも優しく、強く"ならなければならない。(『まちカドまぞく 第2巻』 p110より)
右派が古事記や日本書紀を歴史的事実と見なし、左派が階級闘争史観を通して現実を解釈するのと同じように、我々はまんがタイムきららを人間の真理として扱う。落語の蒟蒻問答において、修行僧は蒟蒻屋の親父の適当な受け答えから叡智を引き出した。そんな感じで我々は日常系萌えアニメにヒューマニズムのエッセンスが詰まっていると信じて、今日もアニメ鑑賞に励む。
それはそうと『まちカドまぞく』でシャミ子が動いているだけで泣くぐらいにドはまりしていて、ついにシャミ子と桃が同棲している予知夢を見てしまった。たぶんまちカドまぞく最終巻の最終決戦に向かう前のピロートークで、「私に寂しさを思い出させた、シャミ子が悪いんだからね……」ぐらいのことは言うはずだ。シャミ子と出逢う前の桃なら、独りでも寂しさや痛みにも耐えられた。心を閉ざして、麻痺させて、何も考えないようにするだけで良かった。一人きりの広い部屋で寝起きして、空腹をジャンクフードで満たしても何も感じなかった。
でもシャミ子が犠牲になって、また一人になってしまったら、今度は孤独に耐えられそうにない。そんな気持ちを思い出させたシャミ子が悪いんだからね……と言ったところで、ティッシュ一箱消費してしまった。