植松容疑者の知的障害者殺人プロレタリア革命。


無防備な知的障害者を殺害した事件の反倫理性については他の人が語っているのでここでは触れない。人権侵害であるとか、生産性がなくても命に区別はないとか、そういう話もしない。なぜか「これは植松容疑者によるたった一人のプロレタリア革命だな」という電波を受信してしまったので、その受信記録を書く。社会正義もクソもないので読むときには気をつけてくれ。

植松容疑者が生きていたのは、月十数万円のはした金で知的障害者の糞尿処理をさせられる世界だ。必死になって働いても低年収から抜け出せず、未来は閉ざされている。それに対して知的障害者の連中は、生きているだけで全肯定されて国から生活保護が支給される。知的障害者は「知的障害者にも人権がある」「人間の価値に違いなんてない」「みんな尊い個人だよ」と言われて手厚く扱われる一方で、低所得健常者には「自己責任だろ」「低所得が嫌なら転職しろ」「努力を怠ったお前が悪い」と突き放される。
お前は知的障害者以下の市場価値しかない。お前はここで永久に知的障害者の糞尿処理をし続けるのだ。そういう世界に植松容疑者は閉じ込められていた。一時期、無敵の人という言葉が人口に膾炙したが、あれこそが鉄鎖以外に失う物が無いプロレタリアートの正統な末裔だ。
低所得奴隷階級が、知的障害特権階級を打倒するプロレタリア革命をたった一人で戦っていたんじゃねえのかなって気持ちになった。知的障害者の人権は守られるべきだと言われる一方で、誰も植松容疑者には見向きもしない。
その中で唯一すがることができる価値観が「生産性のないやつは殺されても仕方が無い。市場原理主義がわかるやつであれば、社会の役に立たないどころか、税金を食いつぶすだけの人間を殺すことの意味を理解してくれるはずだ。私には知的障害者よりも価値がある人間なんだ」という歪んだものになってしまった。
知的障害者を弱々しい無力な存在として私たちは思い描くけれども、植松容疑者の視点から見ると「自分には決して得られないものを、簡単に得ている特権階級」であり、自分が存在している意味を根こそぎ破壊しているモンスターのように映し出されていたのかも知れない。
障害があるという理由だけで、尊厳も博愛も生活保護費も無条件の肯定もすべてを手に入れられる。それなのにおれは知的障害者が簡単に手に入れられるものを与えられていない。その自己認識はゆっくりと魂を蝕んでいく。植松容疑者は自らがこの社会にいてもいい理由を取り戻すために、知的障害者を刺さなければいけなかった。障害者を一人刺し殺すたびに、これまでに奪われた尊厳を取り戻し、無力さを克服しようとした。
……という電波を受信していた。
植松容疑者は刑務所に入ることで、晴れて税金で養われるという特権階級の仲間入りを果たした。年収200万程度で働き続ける絶望よりも刑務所のほうがマシなので、願ったり叶ったりである。じゃあ死刑や厳罰化が有効かというとそうではない。この手合いは「ありがとう!自殺する手間が省ける!こんな世界生きている意味も価値も無いのでさっさと殺してくれ!」と思うはずだ。
何が一番堪えるのかというと、京都アニメーション放火殺人犯の介護あたりがいいのではないのか?と思う。でも案外、意気投合してしまうかも知れない。地の利を活かしてガソリン撒くとか効率的だな!おれも知的障害者施設ごと焼き払えば良かったぜ!みたいな。
そうやって獄中でベストマイフレンドを見つけて欲しい。