※このブログではプリキュアを「人類にとっての普遍的な聖性」といった意味合いで使っています。
・プリキュア律。
割と本気で「プリキュアに喋らせられないことを自身の政治思想にするべきではない」と信じている。もし仮にプリキュアの敵がブルドーザーを怪物化してホームレスの段ボールハウスを壊そうとしているときに、「ホームレスになったのは自業自得だから仕方が無いよね!」なんて言うプリキュアは存在しない。それは完全に悪役側の台詞だ。
ある社会問題を考えるときに考慮されるべきは、政治的な正しさや人権ではない。「その言葉をプリキュアが語るのか?」という尺度だけだ。プリキュアが口にしないような価値観は絶対に肯定しない。もしも自分がプリキュアにあるまじき思想を口にしているのであれば、それは悪だ。
それがプリキュア律の基本的な考え方だ。
なんでそういうことをわざわざ言語化しなければならないのかというと、自身の政治的立ち位置を明確にしないと、優生思想が大好きな差別主義や歴史修正主義者と一緒くたにされかねないからだ。勘違いされるぐらいであれば、GHQに洗脳されたかわいそうな脳みそお花畑の反日左翼だと思われた方がまだマシだ。もっと言えばプリキュアとキリストの区別が付けられない人間になったほうがよい。
プリキュアを観て目から零れ落ちた涙がおれたちの政治思想であり、ゆるゆりを観ているときに胸に広がる暖かい感情の波が我々の思想的源泉だ。
5歳の女児に向かって、真っ正面から訴えられない正義など我々には必要ではない。それがきれい事や理想論だとして、女児に語れない正義には何の意味もない。まっとうな女児向けアニメの登場人物に喋らせられないような価値観を、社会通念として認めるべきではない。
プリキュアはただの子供向けアニメではないし、綺麗事でもない。「この世界には秩序があり、信頼するに値する」という、大人が子供に贈るプレゼントだ。
反プリキュア秩序の満ちたこの世界で生きるには真実は過酷すぎる。わざわざプリキュアは子供だましのフィクションだと言わなくても、セカンドレイプされた性被害者や、悪を為しても裁かれることがない権力者や、頑張っても報われることがない人間や、理不尽な格差が嫌でも目に飛び込んでくる。そのたびに私たちはこの世界への信頼を損ねる。無力さと虚無主義がはびこり、人々から生命力を奪っていく。
人を信頼する。法を信頼する。この世界に決して揺るがないものがあるという信頼を私たちは必要としているのだが、それらはひとつずつ失われていく。差別意識がはびこり、法はないがしろにされ、これまでにすがっていた価値観は崩れ去る。
子供に向かって「この世界は生きる価値があるよ」と言えない思想に意味は無い。それができなければ、生まれなかった人間が一番幸福であるとか、次善の策は今すぐに自殺することであり、それが苦しみを最小限に抑える術だ……と告げなければならなくなる。ぶっちゃけると失意と絶望しか存在しないこの世界でも、おれの心の中にいるプリキュアは諦めない。信じ続ける。それがプリキュアであり、人類にとって普遍的な聖性の顕現だ……。プリキュア……プリキュア……。
・おれはアニメオタクではないのでプリキュアとか熱心に観ていない。
おれはアニメオタクでは無いのだから、プリキュアとか熱心に観ていない。おたく野郎がみんなプリキュアを観ていると思ったら大間違いだ。
最近のプリキュアは「プリキュアという構造」に足を引っ張られているように見える。敵が襲ってきて、変身シーンと戦闘シーンがあり、必殺技バンクがある。この一連のノルマが脚本を回すうえでの障壁になっている。Aパートで足早にドラマを進めて、Bパートで戦闘をするので脚本が不完全燃焼を起こしている。戦いに尺を奪われて、肝心のドラマを描くリソースが奪われる。登場人物の心の動きをなおざりにして無理矢理に進めるので、感動的なシーンが唐突に感じられるときも多い。25分程度の尺で綺麗に起承転結を付けることがアニメ脚本の芸術だと思っているのだが、プリキュアと1話完結型の脚本は相性が悪い。そして我々は禁断の問いを発することになる。「プリキュアである必要なくね?」と。
韓国の魔法少女アニメFlowering heartはその辺をわりと上手く解決していて、「様々な職業に変身して、みんなの力になるよ☆」という方向でシナリオを回している。野球選手として助っ人に入ったり、コンビニ店員がオーディションを受けられるように、変身してシフトを埋めたりするのだ。お仕事スイッチオンであり、おれがハグプリに期待していたものでもある。
ようするに昨今のプリキュアはおおくのものを背負いすぎている。ドラマもバトルもこなし、人間関係の問題を解消して地球を救う。バンダイの販売戦略もやってのけ、政治的に正しいメッセージを発する。それはプリキュアにとって酷なことだ。彼女たちはまだ女子中学生だ。英雄ではなくて、世界平和のために捧げられる人身御供ではないのか。
自分たちが多様性を口にできないからといって、プリキュアに変わって言ってもらうのであれば、おれたちがプリキュアを神聖視するほど、その偶像の重みに押し潰される。それを観て良心の呵責を感じないのか。見て見ぬ振りをすることをおまえはプリキュアから教わったのか?という話だ。
・アーキタイプ!プリキュア(プリキュア元型)
古典文学などに対して自分なりの視点で語れるような教養と才覚が欲しいと思っていたが、俺が自分の魂を下敷きにして語れるのはアイカツ!とプリキュアだけだ。女児向けアニメと同じ熱量を込めてグレートギャッツビーを語れたらかっこいいんだろうな、と思いつつ、「プリキュアはシャーマニズムの基本形である」というプリキュア神話類型の話しかしたくない。
プリキュア神話類型とは何か。それは1、純真無垢な乙女が、2、善の世界に属する精霊の力を借りて、3、超自然的な力を手にし、4、この世界の秩序を破壊しようとする悪霊を、5、戦いによって退ける……という基本的な物語構造を共有している物語群だ。
これをアーキタイプ!プリキュア(プリキュア元型)と呼ぶ。
悪霊はそれ自体で人間の世界に害を及ぼすのではなく、常に人間の心の弱さを媒介にして力を発揮する。人間が抱く強欲、絶望、不幸、ネガティブシンキング、自己否定、自己中心性、貪欲、不協和を温床とすることで、この世界に影響を及ぼす足がかりを得る。
それと同時に、人間の持つ善性から放たれる光によって、これらの邪悪さを乗り越えていくための力が生まれる。人間の弱い心からプリキュアの敵が生まれ、人間の善なる魂からプリキュアの力の根源になるものが生まれる。マザー・テレサもアドルフ・ヒトラーも人間の子宮から誕生した。この世界の善も悪も人間の心から産み落とされる。
プリキュアに関しては長いことナージャ殺しの冤罪をかぶせ続けていた。死にゆく世界名作劇場風味の明日のナージャを、打ち切りに追いやったプリキュアは仮想敵国である。ナージャを失った悲しみで目を曇らせていた俺は反プリキュア主義者として地下に潜った。己の不寛容さによってリアルタイムでプリキュアを鑑賞する好機を逃したのが俺だ。
暴力によって悪を排除するプリキュアは、ヒーローとして許容できても、おれがこれまでに信じてきた魔法少女規範には真っ向から反する。魔法少女規範とは、女児向けアニメの魔法少女が遵守するべき規範である。具体的には「魔法少女は人の背中を押すだけ」だという価値観だ。魔法少女は心の傷を殺菌して、化膿しないように手当てできる。が、実際に心の傷を直すのは本人の自己回復力と意思の力にかかっており、そこまでは魔法少女は関知できない。なんでも魔法でできるけれども、人間の心を魔法で無理矢理変えることだけはできない。
ただ、それだけが魔法少女の全てではない。プリキュアはおれが信じていた魔法少女のあり方とは異なっているが、間違っているわけではない。異なる神話的秩序に属しているだけだ。