配列沼入門

最初に

私は配列沼という特殊なジャンルのおたくをやっている。この記事は「日本語入力を効率化して、気持ち良く、楽に文章を書けるようになるための情報」をまとめてある。書かれていることを実践すれば、1.7倍の効率で文章を書けるようになったり、指に掛かる負担を減らして腱鞘炎を予防できるようになる。
私はパソコンに付属していた安いメンブレンキーボードで、なおかつQwerty配列という非効率極まる環境で文章を打っていたせいで、腱鞘炎になったという経緯がある。
そのせいでなるべく指に負担が掛からないように文章を書けるようにする必要があった。指が痛くなってからでは遅いので、その前に効率的な日本語入力環境を整えて欲しいと願っている。

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「四連星」という推し布石

この記事では推し布石である「四連星」を布教していく。
スピードが速くて、碁盤の半分を瞬く間に自分の勢力圏にしてしまう。入り込んできた敵石を攻め立てて主導権を握りながら、自動的に地を固めていく。置き碁でも応用が利き、難しい布石の知識が不必要で、自然と戦いの力が付く。(※戦闘に強くないと勝ちきれないという意味でもある)

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日記帳


Swans are born of ugly ducklings

「選択と集中」に対抗するために何らかの経済理論をでっち上げられないのかと思い悩む。ウォールストリートの投資家には「金の卵を産むニワトリを見いだすためには、どんなひよこにもえさを与えよ」という格言が伝わっている。どの事業が将来成功するのかどうかは未知数であり、一見すると採算が取れなさそうなものでも簡単に切り捨てるのは、重大な損失になりかねない。
その言葉をマクロ経済学的見地から証明して選択と集中を批判したのが、ケインズ経済学者ヨシヒコ・ウナギザカの『Swans are born of ugly ducklings』(未邦訳)である。彼が提唱した「みにくいアヒルの子理論」を要約すると、「短期的な利潤や効率を追求するグローバル資本主義からは新しいイノベーションは生まれてこない。非効率的なもの、無駄に思えるものや直接的な利益に貢献しないような、一見すると無意味に思えるものの多様性を保持することが逆説的に豊かな資本主義社会を作り出す」というものである。
近著『シンデレラのガラスの靴』では「シンデレラの靴=誰も足が入らない小さなガラスの靴は、中国の纏足文化の影響を受けている」という話を下敷きにして、グリム童話からハリウッド映画にいたるまでの西洋文化が生み出した物語を「纏足された女性=男性社会の都合で奇形にさせられた女性」という観点から説き明かしていく知的スペクタクルである。そんな感じで架空の書物や思想をでっちあげていきたい。

犬のうんこ

政治の話は道ばたに落ちている犬のうんこみたいなもので、確かに誰かが問題にして犬のうんこを片付けなければならないのだが、四六時中犬のうんこの話ばかりだと気が滅入ってくる。政治活動は皆、社会の至る所に落ちている犬のうんこをゴミ袋に入れることであり、そこで「犬のうんこが嫌ならこの国から出て行け!」とか、「みんな犬のうんこを踏むのを我慢して生きているのだから、君も従わなければならない」とか、「犬のうんこを踏むのは自己責任」と言われる筋合いはない。かといって「これが犬のうんこの真実だ!真実を直視して社会から犬のうんこを消し去ろう!」というかけ声とともに、犬のうんこ画像や犬のうんこに関する記事を見せつけられたり、犬のうんこに対して怒りの声を上げる人々の言葉を聞きたいわけではない。
スマートフォンを開く度に世界のどこかで新しく生み出された犬のうんこが目に飛び込んでくる。犬のうんこを取り除くことが政治的に正しいことはわかっているのだが、スカトロ趣味はないので高画質の犬のうんこ画像を発信されても困る。しかしそこから目を背ければ、「おまえは犬のうんこが放置されていることに怒りを感じないか?社会に対して問題意識を持たないおまえのような人間が多いせいで、日本社会は犬のうんこまみれになるのだ!」と批判される。
いつしか人は犬のうんこアパシーになり、目の前に犬のうんこがあってもそれを取り除こうとする意志を失い、犬のうんこを踏み、時には「世の中が犬のうんこだらけなら、自分が脱糞しても誰も気がつかないでは?」とモラルハザードを起こす。あるいは「犬のうんこをちゃんとゴミ袋に入れるなんて、理想主義の左翼でしかない。すべての生き物はうんこをするのであり、この世界からうんこを消し去ることなど到底不可能だ」という詭弁を弄するようになる。
すべての人間が犬のうんこを踏むことなく安心して生活できる社会を作り上げたいという、ごく当たり前の願いは夢想主義者としてあざ笑われる。何世紀も前に生まれた犬のうんこは乾燥し、道にこびり付いてドリルでも持ってこなければ除去できないほどの屈強な犬のうんこになっている。犬のうんこ処理に困った政府は、薄めて海洋放出しようと画策しているし、日本人は古来より犬のうんこと共存してきたという歴史修正主義が人口に膾炙するようになる。そうして誰一人として犬のうんこを取り除くことができないままで、日本社会は犬のうんこまみれになるのだ。
私たちにできるのは、世界中から瞬く間に犬のうんこを消し去ることができる銀の弾丸を待ち望むことでも、有能な政治家が現れて犬のうんこを掃除することでもない。「この犬のうんこは私の飼い犬が残したものではない。どうして無関係な犬のうんこを私が除去しなければならないか」と責任転嫁をしても、犬のうんこが消え去るわけではない。手にシャベルとビニール袋を持って、目の前にある犬のうんこを拾っていくことしかできない。社会は変わらない。自分が拾った分よりも多くの犬のうんこが新しく生み出され、そのたびに自分がやっていることが無意味に感じられる。世界からすべての犬のうんこが取り除けるわけではない。ただ自分が散歩をする公園や道だけは、犬のうんこを踏むという恐怖を抱くことなく生きていけるような、小さな秩序を作り出さなければならない。

きわめて日本人的。

日本社会で育つと、何かしらの信仰や思想を抱くことに対してネガティブなイメージしか与えられない。宗教を信じた結果として地下鉄にサリンをまいたり、政治にコミットしたことで日本赤軍になったりといった極端なロールモデルしか社会が提示できていない。まっとうな信仰心を持って穏やかに生きている人や、バランス感覚のとれた政治思想を持って市民活動にコミットしている人といった、信仰心や政治思想を抱いて生きるロールモデルが極端に少なくて、過激化した人々や、オカルトやスピリチュアル、新興宗教といった偏った事例しか目に見えない。
そうなると政治活動にコミットすることがただデモで大声を上げて暴動を起こすだけになったり、信仰心とともに生きると言われてカルト宗教の末端信者しか想像できなくなる。
極端な事例では無くて、バランスのとれた政治思想や信仰心を持って生きるということのロールモデルか欠落していて、政治や宗教とどういう風に距離感を築いていけばいいのかという目安がない。だから完全に距離を置くか、私生活のほとんどを政治や宗教に注ぎ込むような、ゼロか100かのイメージしか抱けない。それは高校野球に青春をすべて捧げるだとか、企業戦士として私生活を犠牲して猛烈に働くといったロールモデルを、そのまま政治と宗教に適用しているからだと思う。
それ以外の生き方を教えられたことがないから、高校球児みたいにカルト宗教の活動に没頭したり、企業戦士になるかわりに活動家になったりする。依存先が異なるだけで、どう依存するのかという方法に変わりはない。カルト宗教的に部活をするし、過激な政治団体に加入するみたいして企業組織に忠誠を誓う。
どんな組織のなかにいても、信じているものの形が違っていても、日本人の心骨に染み込んでいる行動原理からは逃れられない。日本人的な方法でしか神を信じられないし、政治思想にコミットできない。日本の価値観しか知らないから、他の文化圏にいる人間がどういう風に信じているのかと比較することもままならない。
日本人的であるという点では、保守もリベラルも大した違いは無いように思う。同じような人間の集団の中で育って、均質的な組織風土の中で何十年も過ごして、学校で、家庭で、友人間で、部活で、企業で、日本人的な振る舞いをするように調教されている。
それ以外の価値観があるとは夢にも思わないし、疑おうという価値観自体が生まれない。

福祉としての差別感情

仮に人種差別や国籍による差別が撤廃されたとして、人が生まれ持った知能指数や頭の良さ、能力、生産性、先天的な美しさで公平に評価されるようになったとしたら、それはそれで地獄なのかも知れない。経済的に役に立つのか、社会に貢献しているのか、優れた労働力なのかといった、客観的に測定可能な指標によって人間としての価値が決まる。
そういう意味で国粋主義や差別は、自分がどのような人間であるかどうかにかかわらず日本人(もしくは白人)であるというだけで、一定の自尊心や自己肯定感を与えてくれる。
差別感情が嫌悪に基づくものであるよりも、何かを貶めて相対的に自分自身の価値を高めるものとして機能している。差別感情が自尊心の福祉だったり、単純な娯楽として機能しているのを無視して、「差別はやめましょう。私はおまえたちの自尊心がどうなっても知ったことではないけどね」とだけ言うのは、福祉としての差別感情をないがしろにしている。
差別感情が与えていた自尊心や所属意識、承認、快楽を埋め合わせる別の何かがない限り、差別に依存している人たちを引き離すのは難しい。
高度成長期の時代には企業が金で従業員の自尊心を買っていた。家族を持てるだけの賃金を支払うことで、一人前の社会人であるという自己肯定感や自尊心を与えることができていたのだけど、失われた30年の間に格差が広がって、企業も国家も地域社会も、日本人の自己肯定感を満たせなくなった。その隙間に入り込んできたのが愛国心や排外思想で、自分たちとは異なる人間を軽んじて貶めることで失った自尊心を相対的に満たせるようになった。
右傾化したから差別思想がはびこったというよりも、日本社会には健全な自己肯定感を育むためのシステムが欠落しているせいだと考えた方がつじつまの合う部分もあるのではないか。他者を低く貶めることでしか自尊心を感じられない。いびつな方法でしか自分の価値を感じられない自己肯定感の低さこそが、私たちが抱えている病理なのかも知れない。
相対的に自尊心を満たすためには、自分よりも劣った人間や馬鹿にできる弱者が必要になる。自分が価値ある人間であることを確かめるために、絶えず生け贄となる誰かを探し続けなければならない。

・心が炎症を起こしていない。

ネットから離れたら余計な雑事に煩わされることがなくなったので思考がクリアになっている。なんというかSNSを使って他者の感情に触れていると心が炎症を起こしてしまうのだが、デジタルデトックスのおかげで腫れが引いている感じだ。
他人の言葉は心にとって異物として働く場合がある。免疫機構が病原菌から身体を守るみたいに、不用意に他者の言葉と受け入れないために心の免疫システムが働く。それは正常なシステムなのだけど、SNSの発達で心の免疫が常時稼働して炎症を起こしているような気持ちになる。
心が炎症を起こしているとこの世界を否定的に見たくなったり、他者に対して攻撃的になったり、自分自身が正しいのだという理由が欲しくなる。
炎症を起こしている状態が当たり前になっていて、離れてみてようやくSNSが普及する前の感覚を思い出した。スマホがなかった頃はこんな風に精神が穏やかだった。現在みたいにすさんだ時代ではなくて、匿名掲示板で「LANケーブルで首を吊って死ね!」と罵り合っている程度だった。

永続去勢レジーム

憲法改正や敵基地攻撃能力云々は、国防であると言うよりも去勢された政治的おちんちんを取り戻す話である。第二次世界大戦後に日本は軍事力を失い、軍事的主権を剥奪されて、政治的おちんちんを失ってしまった。憲法9条は右派にとって、軍事力という政治的おちんちんを除去する屈辱的なものである。平和を愛する戦後民主主義は、ペニスを切断されてしまったあげくにアメリカに魂も誇りも売り渡してしまったメス野郎なのだ。
だが自分がおちんちんを奪われた政治的メスであるという事実からは目を背けていたいので、国防のために軍事力の増強が必要だと主張したり、日本国憲法は時代後れだという偽の論点を立てて、自らが政治的に去勢されていることを隠蔽する。時代錯誤の男尊女卑にこだわるのも、それが日本人男性に残された数少ない政治的おちんちんだからだ。アメリカに去勢されたけど、まだ自分は雄々しい人間なんだ、政治的メスでは無いんだ、おちんちんがあり、権力があり、弱い人間に暴力を押しつけることができるのだという幻想を保つために、男らしさの虚構に縋らなければならない。
しかし時代は女装でありトランスジェンダーである。女性的な価値観や感性を取り戻し、男性社会が生み出す圧力を如何にして無力化していくのかが問われる時代だ。経済力や軍事力という政治的おちんちんを振りかざして、影響力を高める行為に固執するのは前時代的である。
政治的おちんちんを取り戻すのでも無く、去勢された事実から目を背けて戦後民主主義がすばらしいものだと受け入れるのでもない。みずからが政治的に去勢されていることを認識して、それをどのようにして発展させていくのか。それが政治的に去勢されてしまった日本にとっての最優先事項ではないのか。

・言葉は簡単に偽るが、態度は覆い隠せない。

南京大虐殺だとか従軍慰安婦問題などの過去の記録が十分に残っていないような出来事について、明確に語れる言葉を私は持っていない。客観的な過去や物証に頼ることができない以上は、何が真実で、何がねつ造か、プロパガンダなのかという区別が付けられない。「そういうことがあったらしい」という不確かな推測を土台にして、不鮮明に思考することしかできない。
でも「今現在の差別的言動が、70年以上前にも繰り返されていてもおかしくない」と考える方が妥当だと思っている。現在の女性への差別は、過去の女性差別とつながっている。外国人技能実習生への待遇や在日韓国人へ態度は、植民地政策と朝鮮人虐殺と無関係ではない。言葉は簡単に偽るが、態度は覆い隠せない。
いまこの瞬間に行われていることは、過去にもあっただろうし、未来にも繰り返される性質のものだと思う。

・アイコン言語。

親にスマホの操作説明をしていた。「送信は紙飛行機のボタンを押す」とか「メールの新規作成は色の付いた+のボタンを押す」といったことを教えるのだが、今のスマホは画面が簡略化されすぎていて慣れていない人には取っつきにくい。
操作方法以前に「アイコンの言語」を覚えないといけない。普通にパソコンを使っているのなら、「送信は紙飛行機」「保存はフロッピーディスク」というお約束に慣れているから大丈夫なのだけど、コンピュータに馴染みがないとアイコンの言葉を一つずつ説明していかないといけない。
アイコンの方がわかりやすい場合もあるけど、説明するときにはめんどい。
どうして設定は歯車なのか、雲のマークはなにを意味するのか。この雲(クラウドサービス)は天気予報アプリの雲とどう違うのか。そもそも送信マークが紙飛行機である必然性がない。もしかしたら画面の隅にいる飛脚のおっさんアイコンをクリックして届けてもらったり、くろやぎさんにおてがみを預けるデザインになっていても不思議ではないし、ポストに入れる方がわかりやすいかも知れない。
アイコンを正しく理解するリテラシーを当然のように見なしているけれども、意識的に学ばないと身につかないものだ。漫画の読み方がわからない子どもについての記事を読んだことがあるが、漫画を適切に読むためには視線を動かすお約束や文法がある。そのうちスマホのアイコンが読めない人たちが生まれて、「電話アイコンって意味不明だよね」と言い出しかねない。
それは固定電話の受話器という太古の遺物じゃよ。

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Linuxの仮想環境でAtokを使う。

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Linux環境下で快適に日本語が入力できる環境を追求した結果、「VirtualboxにWindows XP環境を作り、Atokをインストールして、やまぶきやDvorakJで配列を変更する」方法に落ち着いた。
親指シフトや新JIS配列といったマイナーな日本語配列を使い続けるのは年々難しくなりつつある。配列変更ソフトは長らく更新が止まっていて、Windows10の更新内容によっては突然使えなくなる可能性もゼロでは無い。富士通は親指シフトのサポート終了を発表したし、かえうちや自作キーボードを使うのはハードルが高い。
LinuxはというとMozcの登場で多少ましになったとはいえ、Google日本語入力に比べると雲泥の差がある。Google日本語入力用の変換辞書は搭載されていないため、文脈に応じて賢く変換結果を変えるような芸当はいまのところできない。変換精度が変換制度になるような変換精度だ。
Mozcの強化辞書版をビルドしたり、WineでAtokを動かそうと四苦八苦していたのだが、最終的に「VirtualboxにWindows XP環境を作り、Atokをインストールして、DvorakJややまぶきで配列を変更する」ことで快適な日本語入力環境を手に入れるに至った。


・方法

・参考までに方法を記しておく。
・Windows XPは古いパソコンのリカバリーディスクを使った。無ければオークションやフリマサイトで探すのも手だ。日本語入力をするだけなので、Virtualboxに割り当てるメモリが256MB程度でも十分に動く。
・Atokの過去バージョンをなんとかして手に入れる。Windows XP SP3はAtok2014までなら対応している。
・場合によってはWindows 7でもいいかも知れない。
・オフライン状態で使うので、セキュリティの問題は関係が無い。
・ネットワークドライブとしてLinuxのフォルダを割り当てられるので、保存したテキストをDropboxやNextcloudでバックアップできる。
・UnicodeとShift-JISの文字コード、改行の問題が発生するので、MeryやTerapadなどの高機能なテキストエディタを使おう。
・標準のフォントが汚いので、GoogleのNotoフォントを入れる。
・Seamlessモードで使うと、Linuxのデスクトップ環境と一体化するので使いやすくなる。
・OSの更新にあまり左右されない。
・理論上はVirtualboxのサポートが終了するまで同じ日本語入力環境を使い続けられる。
・英語の入力環境だと簡単にDvorakとかColemak、Workmanといった配列が選べるのに、どうして日本語を入力するときにはこんなに苦しまなければならないのか。

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プリキュア帳

※このブログではプリキュアを「人類にとっての普遍的な聖性」といった意味合いで使っています。

・プリキュア律。

割と本気で「プリキュアに喋らせられないことを自身の政治思想にするべきではない」と信じている。もし仮にプリキュアの敵がブルドーザーを怪物化してホームレスの段ボールハウスを壊そうとしているときに、「ホームレスになったのは自業自得だから仕方が無いよね!」なんて言うプリキュアは存在しない。それは完全に悪役側の台詞だ。
ある社会問題を考えるときに考慮されるべきは、政治的な正しさや人権ではない。「その言葉をプリキュアが語るのか?」という尺度だけだ。プリキュアが口にしないような価値観は絶対に肯定しない。もしも自分がプリキュアにあるまじき思想を口にしているのであれば、それは悪だ。
それがプリキュア律の基本的な考え方だ。
なんでそういうことをわざわざ言語化しなければならないのかというと、自身の政治的立ち位置を明確にしないと、優生思想が大好きな差別主義や歴史修正主義者と一緒くたにされかねないからだ。勘違いされるぐらいであれば、GHQに洗脳されたかわいそうな脳みそお花畑の反日左翼だと思われた方がまだマシだ。もっと言えばプリキュアとキリストの区別が付けられない人間になったほうがよい。
プリキュアを観て目から零れ落ちた涙がおれたちの政治思想であり、ゆるゆりを観ているときに胸に広がる暖かい感情の波が我々の思想的源泉だ。
5歳の女児に向かって、真っ正面から訴えられない正義など我々には必要ではない。それがきれい事や理想論だとして、女児に語れない正義には何の意味もない。まっとうな女児向けアニメの登場人物に喋らせられないような価値観を、社会通念として認めるべきではない。
プリキュアはただの子供向けアニメではないし、綺麗事でもない。「この世界には秩序があり、信頼するに値する」という、大人が子供に贈るプレゼントだ。
反プリキュア秩序の満ちたこの世界で生きるには真実は過酷すぎる。わざわざプリキュアは子供だましのフィクションだと言わなくても、セカンドレイプされた性被害者や、悪を為しても裁かれることがない権力者や、頑張っても報われることがない人間や、理不尽な格差が嫌でも目に飛び込んでくる。そのたびに私たちはこの世界への信頼を損ねる。無力さと虚無主義がはびこり、人々から生命力を奪っていく。
人を信頼する。法を信頼する。この世界に決して揺るがないものがあるという信頼を私たちは必要としているのだが、それらはひとつずつ失われていく。差別意識がはびこり、法はないがしろにされ、これまでにすがっていた価値観は崩れ去る。
子供に向かって「この世界は生きる価値があるよ」と言えない思想に意味は無い。それができなければ、生まれなかった人間が一番幸福であるとか、次善の策は今すぐに自殺することであり、それが苦しみを最小限に抑える術だ……と告げなければならなくなる。ぶっちゃけると失意と絶望しか存在しないこの世界でも、おれの心の中にいるプリキュアは諦めない。信じ続ける。それがプリキュアであり、人類にとって普遍的な聖性の顕現だ……。プリキュア……プリキュア……。


・おれはアニメオタクではないのでプリキュアとか熱心に観ていない。

おれはアニメオタクでは無いのだから、プリキュアとか熱心に観ていない。おたく野郎がみんなプリキュアを観ていると思ったら大間違いだ。
最近のプリキュアは「プリキュアという構造」に足を引っ張られているように見える。敵が襲ってきて、変身シーンと戦闘シーンがあり、必殺技バンクがある。この一連のノルマが脚本を回すうえでの障壁になっている。Aパートで足早にドラマを進めて、Bパートで戦闘をするので脚本が不完全燃焼を起こしている。戦いに尺を奪われて、肝心のドラマを描くリソースが奪われる。登場人物の心の動きをなおざりにして無理矢理に進めるので、感動的なシーンが唐突に感じられるときも多い。25分程度の尺で綺麗に起承転結を付けることがアニメ脚本の芸術だと思っているのだが、プリキュアと1話完結型の脚本は相性が悪い。そして我々は禁断の問いを発することになる。「プリキュアである必要なくね?」と。
韓国の魔法少女アニメFlowering heartはその辺をわりと上手く解決していて、「様々な職業に変身して、みんなの力になるよ☆」という方向でシナリオを回している。野球選手として助っ人に入ったり、コンビニ店員がオーディションを受けられるように、変身してシフトを埋めたりするのだ。お仕事スイッチオンであり、おれがハグプリに期待していたものでもある。
ようするに昨今のプリキュアはおおくのものを背負いすぎている。ドラマもバトルもこなし、人間関係の問題を解消して地球を救う。バンダイの販売戦略もやってのけ、政治的に正しいメッセージを発する。それはプリキュアにとって酷なことだ。彼女たちはまだ女子中学生だ。英雄ではなくて、世界平和のために捧げられる人身御供ではないのか。
自分たちが多様性を口にできないからといって、プリキュアに変わって言ってもらうのであれば、おれたちがプリキュアを神聖視するほど、その偶像の重みに押し潰される。それを観て良心の呵責を感じないのか。見て見ぬ振りをすることをおまえはプリキュアから教わったのか?という話だ。


・アーキタイプ!プリキュア(プリキュア元型)

 古典文学などに対して自分なりの視点で語れるような教養と才覚が欲しいと思っていたが、俺が自分の魂を下敷きにして語れるのはアイカツ!とプリキュアだけだ。女児向けアニメと同じ熱量を込めてグレートギャッツビーを語れたらかっこいいんだろうな、と思いつつ、「プリキュアはシャーマニズムの基本形である」というプリキュア神話類型の話しかしたくない。
 プリキュア神話類型とは何か。それは1、純真無垢な乙女が、2、善の世界に属する精霊の力を借りて、3、超自然的な力を手にし、4、この世界の秩序を破壊しようとする悪霊を、5、戦いによって退ける……という基本的な物語構造を共有している物語群だ。
 これをアーキタイプ!プリキュア(プリキュア元型)と呼ぶ。
 悪霊はそれ自体で人間の世界に害を及ぼすのではなく、常に人間の心の弱さを媒介にして力を発揮する。人間が抱く強欲、絶望、不幸、ネガティブシンキング、自己否定、自己中心性、貪欲、不協和を温床とすることで、この世界に影響を及ぼす足がかりを得る。
 それと同時に、人間の持つ善性から放たれる光によって、これらの邪悪さを乗り越えていくための力が生まれる。人間の弱い心からプリキュアの敵が生まれ、人間の善なる魂からプリキュアの力の根源になるものが生まれる。マザー・テレサもアドルフ・ヒトラーも人間の子宮から誕生した。この世界の善も悪も人間の心から産み落とされる。
 プリキュアに関しては長いことナージャ殺しの冤罪をかぶせ続けていた。死にゆく世界名作劇場風味の明日のナージャを、打ち切りに追いやったプリキュアは仮想敵国である。ナージャを失った悲しみで目を曇らせていた俺は反プリキュア主義者として地下に潜った。己の不寛容さによってリアルタイムでプリキュアを鑑賞する好機を逃したのが俺だ。
 暴力によって悪を排除するプリキュアは、ヒーローとして許容できても、おれがこれまでに信じてきた魔法少女規範には真っ向から反する。魔法少女規範とは、女児向けアニメの魔法少女が遵守するべき規範である。具体的には「魔法少女は人の背中を押すだけ」だという価値観だ。魔法少女は心の傷を殺菌して、化膿しないように手当てできる。が、実際に心の傷を直すのは本人の自己回復力と意思の力にかかっており、そこまでは魔法少女は関知できない。なんでも魔法でできるけれども、人間の心を魔法で無理矢理変えることだけはできない。
 ただ、それだけが魔法少女の全てではない。プリキュアはおれが信じていた魔法少女のあり方とは異なっているが、間違っているわけではない。異なる神話的秩序に属しているだけだ。

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・極東蛮人国家ヤーポネ見聞録。

極東蛮人国家ヤーポネは民主化に失敗して、自由民主主義や人権などの価値観が根ざさなかった極東の封建主義国家だニャ。戦前の社会構造や非近代的な風習がいまだに温存されているのに、自分たちが先進国の一員だという誇大妄想にとりつかれているニャ。
ヤーポネ政府の基盤は戦前の社会体制を流用しているニャ。兵隊を育成する精神論がいまもなお、学校教育での部活動や企業社会のなかで生き延びているニャ。いまだに警察や検察は戦前の憲兵隊や思想警察時代の慣習から脱せずにいるニャ。そのために高圧的で国民を国民だと思わない人権侵害的なアプローチを採用していて、そのたびに諸外国から非難を浴びているニャ。人権感覚は中世とおなじぐらいだニャ。暗黒国家だニャ。

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植松容疑者の知的障害者殺人プロレタリア革命。

無防備な知的障害者を殺害した事件の反倫理性については他の人が語っているのでここでは触れない。人権侵害であるとか、生産性がなくても命に区別はないとか、そういう話もしない。なぜか「これは植松容疑者によるたった一人のプロレタリア革命だな」という電波を受信してしまったので、その受信記録を書く。社会正義もクソもないので読むときには気をつけてくれ。

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