朝起きたら北朝鮮のミサイル特番がやっていて、「おっ、ようやく日本のどこかにミサイルが落ちて、何人か死んだか!? ついに第二次朝鮮戦争が始まったのか、おれはこれから平和主義者として振る舞うぞ! で、何人死んだの?」とドキドキわくわくしていたのだが、ただ上空を飛行して海に落下しただけだった。なんだよ誰も死んでないのかよ。人一人死んでいなくてこの騒ぎかよ、ふざけるな俺の心のときめきを返してくれ、もう一回寝るわ、と心の底から思った。
その次のミサイル警報のときには、真っ先にFXの取引画面を開いていた。
『のんのんびより村の片隅に、鍵ゲー民の亡骸を埋めたのん』
~前回までのあらすじ~
2013年。スマートフォン普及という核の火に包まれたネットは、血で血を洗う地獄と化した。スティーブジョブズの才覚と、米国企業のソーシャルネットワークサービス、島国根性と村社会の陰湿さが悪魔合体を繰り返し、呪詛が呪詛を生み出す地獄が作り上げられたのである。
暴力と炎上、ネットリンチが蔓延る暗黒世界から逃れた者たちは、日常アニメへと身を潜めた。
安住の地を見いだしたかと思えば、わずか一クールで消え去る蜃気楼の国、日常アニメ。繰り返す喪失感と、安住の地にたどり着けるかどうかわからない不安は難民たちの希望を確実に奪っていったのである。
幼いときの記憶の断片のようなもの
駄菓子屋
駄菓子屋に関して覚えているのは、小雨の日に午前九時ちょうどに俺は駄菓子屋に買い物に行った。その時はゴムでできたは虫類のおもちゃに執着しており、一体30円だったか50円だったのかは忘れたけれども、細いゴムを蛇や蜘蛛の形に加工したおもちゃで、おれはそれを収集することに情熱を燃やしていたのだ。
ここ数年の間に、日本語の肌触りが変わってしまった。
数年ほどネット上でアウトプットをしない生活を送っていたのだが、使われている日本語が違う国の言葉みたいによそよそしいものに変わっていった。一見すると同じ日本語なのだけれども、言葉の流通方法も、文章を入力するデバイスも違っている。活字文化の上にパーソナルコンピュータとインターネットが乗っかっているのではなくて、テレビの周辺機器としてスマートフォンとSNSがある。活字寄りの言語から、SNSに最適化された言語にチューニングされている。
他者から需要されなければならない、の呪い
「あなたは他者から需要されるようにならなければならない」という呪いの言葉を、僕たちは絶えず刷り込まれている。
あなたは商品としての価値を高めなければならない。あなたは他者から評価されるような好ましいコンテンツにならなければならない。あなたは陳列される商品にならなければならない。その言葉は僕たちにこう語る。
自分自身で世界の形を作っている。
パソコンで映像や音楽を扱うときにはコーデックに頼る必要がある。
あるデータを読み込むときには、符号化されたデータを解釈するためのプログラムを使う。映像を扱う場合には膨大なデータを圧縮して容量を軽くして、そのデータを再生するときには圧縮されたデータを元通りにする。厳密な定義とは違うのだけれども、複雑なものを扱いやすい形に変換したり、読み解いたりする仕組みだと個人的には思っている。
データを扱う時だけではなくて、この現実社会を解釈するときにも私たちは似たような方法を用いている。現実に存在しているデータは複雑で、そのままでは人間の脳で処理できない。そこで自分の脳が受け入れられるように現実を圧縮したり、単純化して理解する。そのときにどのような方法で世界を解釈するのかというコーデックが存在しているように感じるときがある。
デジタルの軽さ・アナログの重み、そして途中から百合。
2000年ぐらいの話になるが、音楽データをデジタル化できるのは衝撃的だった。
未だipodも存在していない時代に、音楽CDを借りてきてはmp3に変換する。一枚のCDを取り込むのに三十分以上の時間が掛かるような時代だ。一時間だったのかもしれない。少なくともCDを入れればバックグラウンドで自動的に圧縮してくれるような時代ではなかった。
政治的な旗幟を鮮明にする話。
残念なことに、ここでは政治と宗教の話をする。
他人の政治的・宗教的信念に触れないままで、かりそめの人間関係を構築するのに疲れてしまったからだ。
日本社会でつつがなくやっていくためには、政治的な旗幟を鮮明にしてはいけない。私たちは繰り返し、そう教えられて育ってきた。人との軋轢を最小限に抑えるために、自身の政治的・宗教的な立ち位置を隠して、当たり障りなく振る舞うのが社会常識だ。
公の場でデリケートな話題を口にすると、十中八九面倒くさいやつだというスティグマを刻まれていきていくことになる。意見の違いを表面化させないように、政治宗教の話には触れないようにする。しかし、そうやって振舞っている間に、日常生活の中でアンタッチャブルな話題が増えていき、最後には何も喋れなくなる。
人間に、擬態するのは、もう限界。
みなさまご存じの通り、おれはめんどうくさい人間である。どのような面倒くささかと言えば、人の気持ちを推し量れない鈍感さで他者を不快にさせるが、自意識が過剰かつ繊細で、ガラス細工のように脆い。つまり他人を傷つけるがその反動で自己嫌悪が加速する仕組みになっている。どうだ、面倒くさいだろ。
その面倒くささを隠蔽して、対人コミュニケーションスキルを身につければ、おれは人間として生きていけるのではないのか。当時、おれは囲碁の定石を丸暗記していた。それと同じ要領で対人関係そのものを定石化・マニュアル化すれば、人間に擬態してこの社会で楽に生きていけるようになるのではないのか?と思い至った。
おれは「これで完璧!雑談術!」だとか「コミュニケーション力を上げる会話メソッド」だとか「人を動かす」といった類いの本を買い込んで、コミュニケーション能力を底上げしようとした。これでおれもコミュニケーションの達人だ!!
ゼロ年代の時間感覚を取り戻すための話。
私はゼロ年代の穏やかな時間感覚を取り戻すことにした。
スティーブ・ジョブズがiphoneを発明する以前には、インターネットはお外に持ち出せないものだった。ネットブックを路上に持ち出してインターネットをする行為が、ストリートインターネットとしてもてはやされていた時代である。ちなみに充電時間は1時間半しか持たない。人々はlanケーブルで大地に縛り付けられ、直射日光の当たらない薄暗い部屋でインターネットに繋がっていた。外でなんの気兼ねも無くtwitterをチェックできるというのは革命だったのだ。しかし革命が無残な結果に終わることは、何度も歴史が証明している。フランス革命もロシア革命も、カンボジアのときもそうだった。