スマートフォンが使えない体質になってしまった。
スマホだけではなくて、ソーシャルメディアやSNS全般に対して、生理的かつ論理的な嫌悪感を抱いている。その最も大きな要因が、言葉の距離が近すぎることだ。スマートフォンのスクリーンに映し出される言葉が、脳に直接刺さるような感覚になる。
加工されていない生のままの人間の言葉を、自分は上手に処理できない。切れ端になった言葉の断片、誰が喋ったのかもわからない出処不明の言葉、顔の見えない短文テキスト、こういったものを日常的に読み聞きすることに強いストレスを感じている。
私がこれまでにネット上で読み聞きしていた言葉は、多かれ少なかれ個体識別ができた。ホームページやブログなどの、ある特定の場所で、ある特定の個人が発信している言葉だった。画面の向こう側には何かしらの価値観を持った他者がいて、その人が文章を書いている。それが自分にとって大切なことだった。
どのようなパーソナリティーを持った人間が、どういう文脈でその言葉を発するのか。言葉それ自体の正しさよりも、これまでにその人がどのような言葉を使ってきたのか、何を絶賛し、何に怒っているのか。そういった些細な言葉の積み重ねが、文章に重さを与えていた。
ソーシャルメディアが普及してから、連続したパーソナリティに触れられる機会が極端に減ってしまった。断片になった言葉には指紋が無く、顔が見えない。パーソナリティから切り離された言葉が、亡霊のようにインターネットに浮遊しているように感じられることが多くなった。
・「言葉のフェアネス」は死んだ。
リベラルな言説は死んだのだと思っている。ここでいうリベラルというのは特定の政治的主張を表すのではなくて、「客観的な事実を踏まえて、論理立てて言説を組み立てる」という思考プロセスを指す。
リベラルではなくて、「フェアな精神で言葉を扱う姿勢」といった方がいいかも知れない。スポーツでは相手は悪質な反則をしないだろうという前提を共有する。それはパブリックな場でのコミュニケーション同じで、「相手は事実に基づいて、論理的な言葉を使って私を説得しようとしている。互いを欺かないというフェアネスの精神を了承している」という紳士協定の上に成り立っている。
もし相手が事実を誤認しているときは、悪意からでは無くて、無知だったり誤解しているだけだ。意味が不明瞭なことがあっても、それは自分の理解力か相手の表現力に問題があって、伝わるべきことが伝わらなくなっているに過ぎない。
客観的な事実に立ち返り、そこから一歩ずつ論理を積み立てていけば、時間はかかるかも知れないが妥協点は見いだせるはずだ……という価値観が「言葉のフェアネス」だ。
言葉のフェアネスは、相手が倫理的に振る舞うことを前提にしたものなので、「咎められないのならいくらでも反則をしても構わない」というアンフェアな言動を想定していない。
濾過された現実を観るということ。
・メディアの印象過多について
テレビで白血病の闘病記を見ていたのだが、チャンネルを変えたくなってしまった。写真や映像で見た場合の印象が鮮烈すぎて、闘病の苦しさを受け止められなかった。これが文章だったら印象が和らぐのだが、映像として見るのは刺激が強い。東日本大震災の津波映像も、テロや銃撃事件の現場で取られた映像も、児童虐待のニュースも、生々しすぎて神経が耐えられない。
世界中の悲惨なことを映像で報道できるようになった結果、それがあまりにも印象過多になる。その結果、ネガティブな世界観を自然と遠ざけている。
文字情報だけなら「世界にはこんな酷いことがあるんだね」で済ませられることが、ニュースになると精神が削り取られて憂鬱になる。
映像で現実の悲惨さを伝えられるようになっても、自分たちの精神は残虐さに耐えられない。報道のために表現をマイルドにせざるを得ないのだが、そのことで逆に実態から遠ざかっていく。
・異質さの交易。
意見の違う人間の話は聞かなくていい。不愉快な発言をしているやつは即ブロックしたほうが精神衛生上好ましいし、すべての人間の言い分を理解する必要はない。話し合えば理解できるというのは幻想に過ぎない。言葉を交わしても徒労に終わるし、何の意味も無い。思想信条の異なった人間の言葉には耳を傾けない方がいい。
……というのはコミュニケーションの労力を削減するためには好都合なのだが、異質なものを排除するメンタリティが常態化していく。不愉快なものを切り捨てて行く過程で、両手で耳を塞いで自分の喋りたいことだけをまくし立てるようになりかねない。異質な他者を喪失していって、自分と似た思考を持った人間しかいなくなる。そうなると他者だと思っている人たちは皆、鏡に映った虚像と変わりが無くなるのでは?
だからといってすべての人の言葉、立ち位置、発言を平等に受け止めるリソースは捻出できない。
「話し合っても無駄」ではなくて、どうしたら対話のためのプラットフォームが成り立つのだろう? 異質な価値観をパージせずに、それでいて疲弊することなくコミュニケーションが成り立つのか?
・ディスコミュニケーションの話法について。
僕たちの社会にはディスコミュニケーションの話法が蔓延している。互いを理解するために言葉を使うのでは無くて、「いいからお前は黙っていろ」と圧迫したり、言葉への信頼を損なわせるような言葉が使われている。それがディスコミュニケーションの話法だ。
ある言葉を聞いたときに、「こいつには何を言っても無駄だ」と思ったり、批判される恐怖を思い描いて喋りたいことが口にできなくなる。あるいは生命力を削がれていくような負の言葉を投げかけられる。対話への意欲が損なわれていくような種類の言葉を、僕たちは日常的に浴びている。
コミュニケーションへの意欲を減退させるために用いられるものはすべて、ディスコミュニケーションの話法に分類される。
デマや誹謗中傷、クソリプや人格攻撃のたぐいは、コミュニケーションへの信頼性を破壊することを目的としている。こいつらとは話しても無駄だ。言説には耳を掛け向ける価値は無い。相手にしても疲労するだけだ。得られるものは何もない。非生産的で、何の意味も無い。そう思う度に コミュニケーションのチャネルが閉ざされていって、言葉が使い物にならなくなっていく。
・パーソナライズされた現実
まず最初に認識しなければならないのは、私たちはパーソナライズされた現実の中で生きているということだ。
オールドメディアが主流だった時代では、同じ社会の人間は同じ情報源を共有していた。たとえ異なる価値観を持っていても、テレビを観て、新聞や雑誌に描かれていることを材料にして現実認識を形作っていた。
だが今では現実感覚を作る材料が多様化して、自分に最適化された現実を作り上げられるようになった。見たいものだけを見て、信じたい事実だけを信じる。自分が作り上げた価値観に閉じこもって、不愉快な現実を拒絶することも簡単になった。そのことでパーソナライズされた現実が生まれた。
・政治発言ブロッカーが欲しい
政治発言ブロッカーが欲しいと以前から思っている。
どうも政治的発言を見聞きするときに、意図せぬ形で広告を差し挟まれたときと同じ脳の部位が反応する(ような気がする)。年収アップ! だれでもかんたん融資、原発ゼロ! 借金返済、汚い肌荒れを解消、イージス導入で日本を守ろう!……というような言葉にこっそり政治的言説を混ぜても違和感がない。
保守・リベラルに関係なく、同じような主張を繰り返し見せつけられるたびに、食傷気味になる。広告と同じチャネルを使って政治的言説が流通し始めた結果、最終的にわずらわしいスパムと同じレベルにまで堕してしまった。
・インターネットカツ丼クラスタから逃げてきた。
カツ丼にまつわる言説が嫌なのではなくて、不適切な方法とタイミングでカツ丼情報をタイムラインに流し込まれるのがストレスになっていた。カツ丼への知見を深める情報を得たいだけなのに、「あのカツ丼屋の店主はクソだ」とか「あんなカツ丼を食って喜んでいるやつは、本物の味を知らないアホ」といった、怒りや負の感情に満ちた情報が目に触れてしまうのは、感情汚染のように感じられるのです。
いい悪いではなくて、疲れていて消化のいいものしか食べたくないときに、カツ丼大盛りが運ばれてくれる。ぼやーっと受動的にどうでもいい情報を消費したいときに、情報リテラシーや思考力を求められる話題が流れてくるようなものだ。
いまは軽い食事がしたいというニーズを無視して、「カツ丼食べないとだめだよ。そんな栄養のないジャンクフードばっかり食べていないで、カツ丼食べよ!カツ丼おいしいよ!」とカツ丼をごり押ししているあいだに、カツ丼嫌いの人間を増やしているんじゃないのかなー、と思うことがある。
思考するときに気をつけていること。
このエントリでは、言葉を使うときや思考するときに気をつけていることについての文章をまとめています。自分が行いがちな思考の癖を言語化して、意識的になることを目的として書かれています。
・多数派になる義務と努力のこと。
多くの人が与党を支持しているというよりも、「多数派が善であり、少数派に属することはリスクが伴う。周囲から浮き上がらないように、自分も多数派の価値観を受け入れられるように努力しなければならない」という行動パターンで動いているのではないのか?
……という発想が思い浮かんだので、とくに論拠も客観的なデータもないまま「多数派になる義務と努力」についての文章を書いていく。話半分に読んでくれると助かる。
僕たちの社会には民主主義的な価値観は根付いていない。権利を主張したり、自分の良心を優先させるような教育は受けていない。むしろその逆で、主権者としての意思を自ら捨て去るような教育を受ける。
自分の意思は横に置いておいて、校則に従わなければならない。就職活動でのルールに従わなければならない。企業組織に従わなければならない。その延長線上に、自分の意思は横に置いて、多数派が選ぶ政治上の意思決定に従わなければならないという価値観が生まれる。