濾過された現実を観るということ。

・メディアの印象過多について

テレビで白血病の闘病記を見ていたのだが、チャンネルを変えたくなってしまった。写真や映像で見た場合の印象が鮮烈すぎて、闘病の苦しさを受け止められなかった。これが文章だったら印象が和らぐのだが、映像として見るのは刺激が強い。東日本大震災の津波映像も、テロや銃撃事件の現場で取られた映像も、児童虐待のニュースも、生々しすぎて神経が耐えられない。
世界中の悲惨なことを映像で報道できるようになった結果、それがあまりにも印象過多になる。その結果、ネガティブな世界観を自然と遠ざけている。
文字情報だけなら「世界にはこんな酷いことがあるんだね」で済ませられることが、ニュースになると精神が削り取られて憂鬱になる。
映像で現実の悲惨さを伝えられるようになっても、自分たちの精神は残虐さに耐えられない。報道のために表現をマイルドにせざるを得ないのだが、そのことで逆に実態から遠ざかっていく。

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・異質さの交易。

意見の違う人間の話は聞かなくていい。不愉快な発言をしているやつは即ブロックしたほうが精神衛生上好ましいし、すべての人間の言い分を理解する必要はない。話し合えば理解できるというのは幻想に過ぎない。言葉を交わしても徒労に終わるし、何の意味も無い。思想信条の異なった人間の言葉には耳を傾けない方がいい。
……というのはコミュニケーションの労力を削減するためには好都合なのだが、異質なものを排除するメンタリティが常態化していく。不愉快なものを切り捨てて行く過程で、両手で耳を塞いで自分の喋りたいことだけをまくし立てるようになりかねない。異質な他者を喪失していって、自分と似た思考を持った人間しかいなくなる。そうなると他者だと思っている人たちは皆、鏡に映った虚像と変わりが無くなるのでは?
だからといってすべての人の言葉、立ち位置、発言を平等に受け止めるリソースは捻出できない。
「話し合っても無駄」ではなくて、どうしたら対話のためのプラットフォームが成り立つのだろう? 異質な価値観をパージせずに、それでいて疲弊することなくコミュニケーションが成り立つのか?

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・ディスコミュニケーションの話法について。

僕たちの社会にはディスコミュニケーションの話法が蔓延している。互いを理解するために言葉を使うのでは無くて、「いいからお前は黙っていろ」と圧迫したり、言葉への信頼を損なわせるような言葉が使われている。それがディスコミュニケーションの話法だ。
ある言葉を聞いたときに、「こいつには何を言っても無駄だ」と思ったり、批判される恐怖を思い描いて喋りたいことが口にできなくなる。あるいは生命力を削がれていくような負の言葉を投げかけられる。対話への意欲が損なわれていくような種類の言葉を、僕たちは日常的に浴びている。
コミュニケーションへの意欲を減退させるために用いられるものはすべて、ディスコミュニケーションの話法に分類される。
デマや誹謗中傷、クソリプや人格攻撃のたぐいは、コミュニケーションへの信頼性を破壊することを目的としている。こいつらとは話しても無駄だ。言説には耳を掛け向ける価値は無い。相手にしても疲労するだけだ。得られるものは何もない。非生産的で、何の意味も無い。そう思う度に コミュニケーションのチャネルが閉ざされていって、言葉が使い物にならなくなっていく。

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・パーソナライズされた現実

まず最初に認識しなければならないのは、私たちはパーソナライズされた現実の中で生きているということだ。
オールドメディアが主流だった時代では、同じ社会の人間は同じ情報源を共有していた。たとえ異なる価値観を持っていても、テレビを観て、新聞や雑誌に描かれていることを材料にして現実認識を形作っていた。
だが今では現実感覚を作る材料が多様化して、自分に最適化された現実を作り上げられるようになった。見たいものだけを見て、信じたい事実だけを信じる。自分が作り上げた価値観に閉じこもって、不愉快な現実を拒絶することも簡単になった。そのことでパーソナライズされた現実が生まれた。

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・政治発言ブロッカーが欲しい

政治発言ブロッカーが欲しいと以前から思っている。
どうも政治的発言を見聞きするときに、意図せぬ形で広告を差し挟まれたときと同じ脳の部位が反応する(ような気がする)。年収アップ! だれでもかんたん融資、原発ゼロ! 借金返済、汚い肌荒れを解消、イージス導入で日本を守ろう!……というような言葉にこっそり政治的言説を混ぜても違和感がない。
保守・リベラルに関係なく、同じような主張を繰り返し見せつけられるたびに、食傷気味になる。広告と同じチャネルを使って政治的言説が流通し始めた結果、最終的にわずらわしいスパムと同じレベルにまで堕してしまった。

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・インターネットカツ丼クラスタから逃げてきた。

カツ丼にまつわる言説が嫌なのではなくて、不適切な方法とタイミングでカツ丼情報をタイムラインに流し込まれるのがストレスになっていた。カツ丼への知見を深める情報を得たいだけなのに、「あのカツ丼屋の店主はクソだ」とか「あんなカツ丼を食って喜んでいるやつは、本物の味を知らないアホ」といった、怒りや負の感情に満ちた情報が目に触れてしまうのは、感情汚染のように感じられるのです。
いい悪いではなくて、疲れていて消化のいいものしか食べたくないときに、カツ丼大盛りが運ばれてくれる。ぼやーっと受動的にどうでもいい情報を消費したいときに、情報リテラシーや思考力を求められる話題が流れてくるようなものだ。
いまは軽い食事がしたいというニーズを無視して、「カツ丼食べないとだめだよ。そんな栄養のないジャンクフードばっかり食べていないで、カツ丼食べよ!カツ丼おいしいよ!」とカツ丼をごり押ししているあいだに、カツ丼嫌いの人間を増やしているんじゃないのかなー、と思うことがある。

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思考するときに気をつけていること。

このエントリでは、言葉を使うときや思考するときに気をつけていることについての文章をまとめています。自分が行いがちな思考の癖を言語化して、意識的になることを目的として書かれています。

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・多数派になる義務と努力のこと。

多くの人が与党を支持しているというよりも、「多数派が善であり、少数派に属することはリスクが伴う。周囲から浮き上がらないように、自分も多数派の価値観を受け入れられるように努力しなければならない」という行動パターンで動いているのではないのか?
……という発想が思い浮かんだので、とくに論拠も客観的なデータもないまま「多数派になる義務と努力」についての文章を書いていく。話半分に読んでくれると助かる。

僕たちの社会には民主主義的な価値観は根付いていない。権利を主張したり、自分の良心を優先させるような教育は受けていない。むしろその逆で、主権者としての意思を自ら捨て去るような教育を受ける。
自分の意思は横に置いておいて、校則に従わなければならない。就職活動でのルールに従わなければならない。企業組織に従わなければならない。その延長線上に、自分の意思は横に置いて、多数派が選ぶ政治上の意思決定に従わなければならないという価値観が生まれる。

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・素朴な正義感とヘイトの境界線。

正しそうなことをそのまま喋るのはあまり好きでは無い。正しさが言動を正当化する免罪符になって、それを理由にして自己の行いを顧みなくなってしまう。
誰しもが素朴な正義感に振り回されているように見える。おれはクソサヨクなのだが、安倍政権の不正を許せないという感情がある。それは素朴な正義と民主主義、人権などを材料にして正当化を行っているように感じられる。
自分の感情を正当化するために、都合のいい思想や価値観を持ち出して自己欺瞞に陥っていないのかと思い悩むときがある。悪い相対主義にはまり込んでいるのかも知れない。
民主主義や人権、憲法といった言葉を振り回していると、自分が正しい側にいると錯覚してしまう。これらの価値観を否定しているのでは無い。疑いようのない正しさを手に入れたときに、「私は正しい側にいるのだから、手段を選ばなくてもいい」と考えるようになるのが怖い。
現在(二〇一九年)の外国人ヘイトは、根拠の無い偏見と無知に支えられている。これはまだヘイトスピーチとしては穏健な方だと個人的には思っている。偏見が根底にある差別に比べて、明確な理由が与えられる差別は簡単に自らの言動を正当化できる。
ユダヤ人の差別問題でおぞましいのは、「優生学の観点からいって彼らは劣った人種であり、差別されるのは仕方が無い」という科学的な根拠が与えられた点だ。現在ではそれをエセ科学だと一蹴できるけれども、歴史的、宗教的、科学的、政治的な根拠に支えられた差別意識というものを僕たちはまだ経験したことが無い。

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・低い自己肯定感を埋め合わせる道具としての政治思想について。

「自虐史観を排して、日本人の誇りを取り戻す」という言葉を、保守や右翼の人たちはよく口にするけれども、「誇りを取り戻したい」という言葉には実感がこもっているように聞こえた。
それは彼らが主張するようなGHQの洗脳による自虐史観の産物ではない。左派的な価値観であれば、平成の失われた30年の間に産業競争力が削がれ、実質賃金が下がり、ブラック労働が横行する中で人権と尊厳が損なわれていると言うかも知れない。
右派は「あなたの自己肯定感が低いのはGHQや左翼のせいだよ! あなたは何も悪くないよ」と言って、左派は「あなたは自分のことを無価値だと思い込んでいるけど、人間を消耗品として扱う資本主義のせいだよ。君は悪くないよ」と主張する。
自分は自虐史観には与しないけれども、自虐的な価値観や思考回路に染まっているとは思う。政治思想の左右を問わず、日本人の自尊心や自己肯定感は低い。日本社会の中で生きていると、自尊心や自己肯定感が低くなってしまう。

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