政治の話題から逃れようと必死になっていたが、おれにはどこにも逃げ場所が無かった。日本の狭い政治から逃げ出して、海外の情報源に目を向ける。ここには日本のネトウヨはいないと思っていたら、ハンガリーでもインドでも、情報テクノロジーの普及とともにalt-right運動が活発になっており、時には人権派活動家がク・クラックス・クランに銃撃されたりする。それに比べたら日本のネトウヨなど非暴力主義の愛国聖人である。ほほえまー。
定型化される現実認識について
トランプ大統領の訪日報道を観ていて違和感を覚えた。てっきり今後の東南アジアの外交戦略や安全保障問題、各国間の関係などが解説されるものだとばかり思っていたが、「アメリカの大統領が来日! 気になる昼食のメニューは?」といった視点の報道ばかりだった。大統領というよりかはむしろハリウッドスターが日本観光にやってきたときに使われるような番組構成にするのには、理由があるのだろうか?
まず最初に立てた仮説は、「わざと問題を矮小化している」だった。
政治の話をしないという政治的行為について。
長年やめていたブログを再開することにした。2015年ぐらいから急激にインターネット上の日本語に触れるのが嫌になっていた。政治の話題に汚染されたネットが窮屈になっていた。政治の話がめんどうくさいのは認める。私自身もめんどうくさい側の人間なので、めんどうくさい話題に首を突っ込んで、めんどうくさい話をする。
でもそれ以上にめんどうだったのは、周囲の反応をきょろきょろと見回して、何を喋るべきか、何を黙っているべきか?のラインを探る自分の行いだった。
感情揺り動かしマシンとしてのメディアについて
注文を外す
囲碁をやっているときには「相手の注文を外すこと」を考える。相手が「私がここに打ったら、あなたは受けるしかないですよね?」という手を打ったとする。こういうときに「お前の注文には乗らん。そんな魚の尻尾はくれてやる」と、相手の思惑を外す手段をなるべく考えるようにしている。
メディアに接するときにも「相手の注文を外す」テクニックを使っている。
おねがい☆北朝鮮
朝起きたら北朝鮮のミサイル特番がやっていて、「おっ、ようやく日本のどこかにミサイルが落ちて、何人か死んだか!? ついに第二次朝鮮戦争が始まったのか、おれはこれから平和主義者として振る舞うぞ! で、何人死んだの?」とドキドキわくわくしていたのだが、ただ上空を飛行して海に落下しただけだった。なんだよ誰も死んでないのかよ。人一人死んでいなくてこの騒ぎかよ、ふざけるな俺の心のときめきを返してくれ、もう一回寝るわ、と心の底から思った。
その次のミサイル警報のときには、真っ先にFXの取引画面を開いていた。
『のんのんびより村の片隅に、鍵ゲー民の亡骸を埋めたのん』
~前回までのあらすじ~
2013年。スマートフォン普及という核の火に包まれたネットは、血で血を洗う地獄と化した。スティーブジョブズの才覚と、米国企業のソーシャルネットワークサービス、島国根性と村社会の陰湿さが悪魔合体を繰り返し、呪詛が呪詛を生み出す地獄が作り上げられたのである。
暴力と炎上、ネットリンチが蔓延る暗黒世界から逃れた者たちは、日常アニメへと身を潜めた。
安住の地を見いだしたかと思えば、わずか一クールで消え去る蜃気楼の国、日常アニメ。繰り返す喪失感と、安住の地にたどり着けるかどうかわからない不安は難民たちの希望を確実に奪っていったのである。
幼いときの記憶の断片のようなもの
駄菓子屋
駄菓子屋に関して覚えているのは、小雨の日に午前九時ちょうどに俺は駄菓子屋に買い物に行った。その時はゴムでできたは虫類のおもちゃに執着しており、一体30円だったか50円だったのかは忘れたけれども、細いゴムを蛇や蜘蛛の形に加工したおもちゃで、おれはそれを収集することに情熱を燃やしていたのだ。
ここ数年の間に、日本語の肌触りが変わってしまった。
数年ほどネット上でアウトプットをしない生活を送っていたのだが、使われている日本語が違う国の言葉みたいによそよそしいものに変わっていった。一見すると同じ日本語なのだけれども、言葉の流通方法も、文章を入力するデバイスも違っている。活字文化の上にパーソナルコンピュータとインターネットが乗っかっているのではなくて、テレビの周辺機器としてスマートフォンとSNSがある。活字寄りの言語から、SNSに最適化された言語にチューニングされている。
他者から需要されなければならない、の呪い
「あなたは他者から需要されるようにならなければならない」という呪いの言葉を、僕たちは絶えず刷り込まれている。
あなたは商品としての価値を高めなければならない。あなたは他者から評価されるような好ましいコンテンツにならなければならない。あなたは陳列される商品にならなければならない。その言葉は僕たちにこう語る。
自分自身で世界の形を作っている。
パソコンで映像や音楽を扱うときにはコーデックに頼る必要がある。
あるデータを読み込むときには、符号化されたデータを解釈するためのプログラムを使う。映像を扱う場合には膨大なデータを圧縮して容量を軽くして、そのデータを再生するときには圧縮されたデータを元通りにする。厳密な定義とは違うのだけれども、複雑なものを扱いやすい形に変換したり、読み解いたりする仕組みだと個人的には思っている。
データを扱う時だけではなくて、この現実社会を解釈するときにも私たちは似たような方法を用いている。現実に存在しているデータは複雑で、そのままでは人間の脳で処理できない。そこで自分の脳が受け入れられるように現実を圧縮したり、単純化して理解する。そのときにどのような方法で世界を解釈するのかというコーデックが存在しているように感じるときがある。