Lifehack
・ロシアンルーレットによる人口調整
世界総人口が100億を超え、持続的な経済成長が不可能になったときに考案されたのが、ロシアンルーレットによる人口調整だった。
全ての人間にとって平等な方法で、段階的に総人口を減らし、持続的な発展を可能とする。その最後の切り札がロシアンルーレットだ。当初は人権団体による反対があったものの、地球人類の大多数は「どうせ六分の一だし、自分が死ぬはずが無い」という根拠の無い楽観を抱いていた。地球温室化ガス削減に反対していたアメリカも「ロシアンルーレット需要で銃産業が潤う」というもくろみを抱き、ロシアンルーレットによる人口調整政策が気候変動枠組条約として採択された。
これにより全人類がロシアンルーレットを行うという、前代未聞の集団自殺社会が到来したのである。
・ダニング=クルーガー効果を誤用して、無能さから自信と自己肯定感を得る。
・* 「無能な人だけが自分を過大評価する」は間違い、本当は平均的な人でも自分を過大評価する - GIGAZINE
ダニング=クルーガー効果は「無能な人だけが自分を過大評価する」という本来の定義を外れて、「頭の悪いやつは自分の知能に見合った自己肯定感を持つべきだ。無能な弱者が苦しんでいても、それは正しい自己認識なのだから仕方が無い」という言外の意味が生まれているような気がする。
記事のグラフから読み取れるのは、「平均的な人間も自己を過大評価する」のではなくて、「みんな自分が中の上だという幻想を持っている」だ。どんな人間でも、ちゃんと平均的な自己肯定感を持っている。
人間は自尊心やナルシシズム、自己効力感が無いと生きていけない。有能で、社会の役に立ち、価値のある人間だという幻想無しには耐えられない。知能レベルを客観的に評価できるやつは、下の中や下の下という否定的な自己認識にさいなまれて自殺してしまい、遺伝子プールからは取り除かれた(たぶん)。
・断片化して、彩度が高くなった言葉について。
数年ぶりにTwitterのアカウントを取得したのだが、タイムラインに流し込まれる言葉の渦を見て吐き気を催してしまった。何人もの人間の言葉が細切れになって、脈絡も無く画面に映し出されている。そのとき話題になっていた時事問題についてのコメントが、24インチのディスプレイにびっしりと表示されている。
文脈を欠いた言葉の断片しかない。思考の流れは断ち切られ、文章の構造を持たない感情の群れになる。そんな感覚を覚えてしまったので、タイムライン型のSNSを使いたくない。
・適切な分量の怒りを持つことについて。
自分の抱いている怒りが人間として表明するべき自然な感情だったとしても、それが他人の負の感情と共鳴して、群れになって、別の感情に変質していくのは好ましいことでは無い。
政府の不正を追求する記事を新聞や雑誌で読むのと、何十人、何百人もの人たちが怒っているのをインターネットのコメント欄などで見聞きするのは、情報としての肌触りが違う。
「そんなに怒りを振り回していたら大衆の支持を失うだけだよ」と冷笑したいのでは無い。怒りを抱くことや不正に抗議すること自体は問題が無い。むしろ声を上げなければならない義務がある。
その一方で負の感情が、自分たちに処理できないほどに過剰になる。
減らす。ミニマリズム。
・フィルタリング戦記・対話用。
膨大な情報をフィルタリングするさいに、「礼儀正しくない言葉を喋るやつは、どんなに思想信条や価値観が似通っていても無視する」という基準を作っている。逆に言うと、適切な言葉で語られているのであれば、真逆の意見でもとりあえず耳を傾けようという気持ちになる。
これは過剰な量の情報を減らしつつも、閉鎖的な価値観に凝り固まりたくないという動機から生まれたものだ。
言葉を評価する基準を決めて、品質に値しない言葉を徹底的に無視する。
その際には下記の要素を重視して言葉の質を測る。
- ・礼儀正しいか?
- ・言葉に固有の指紋があるのか?
- ・発信者には比較的長い文章を論理立てて組み立てられる文章力があるのか?
- ・発信者は自分の言葉に対して責任を負うのか?
- ・言葉から受ける肌触りが好ましいものか?
- ・機嫌はいいか。それとも不機嫌か?
- ・意見を押しつけてこないか?
- ・マイナスをゼロにする話題か、それともゼロをプラスにする話題か。
- ・「好きなもの」について語っているか?
- ・言葉に嘲笑や冷笑が混じっていないか?
- ・使っている言葉が定型的か?
- ・ネガティブな言葉をシェアするか?
これらの基準は絶対的なものではなくて、あくまでも目安だ。
・匿名でも礼儀正しくてしっかりとした言葉を喋るのなら耳を傾ける場合があるし、機嫌が良くて言葉が刺々しくないのなら定型的な言葉を喋っていても気にならない。
・体調によっても、許容できる言葉の水準が変わる。アクが強いからブログで読むのは気にならなくてもSNSをフォローするのはつらいとか、その逆もある。
・どのような基準を採用するにしろ、ある言葉を受け取った結果としてエネルギーが増えた感じがするのか、それともエネルギーを吸い取られるような気持ちになるかどうかを観察する。
・正しいように感じられる言葉でも、触れた後になにか嫌な気持ちになるようなときには離れた方がいい。
・一日に摂取する言葉はほどほどにする。
私たちは言葉を消耗品として扱っている。使い捨てのプラスチックペットボトルみたいに、言葉を大量に生産して次の日には大量に廃棄する。ベルトコンベアから運ばれてくる文章や言説、言葉を浴びているうちに、一つ一つの言葉が消化不良になっている。
商品としての言葉に慣れ親しみすぎているあまりに、それ以外の言葉がどのようなものなのか想像ができなくなっている。
わずかな言葉で満ち足りてしまったら、商品としての言葉は成り立たなくなる。常に私たちが欠乏感を覚え、次々に新しい言葉を欲しくなるような言葉や情報だけを選択的に与えられているのではないのか。
好奇心に満腹中枢は無いから、食べ物のように際限が無い。麻薬中毒のように満たされない情報に依存してしまうときがある。何十分も、何時間も、めぼしい情報が得られるわけではないとうすうす感づいているはずなのに、twitterをスクロールし続けてしまうなど、誰しもが身に覚えがあるはずだ。
・言葉を粗雑に扱うことで、言葉そのものへの信頼感が失われているように思える。
大量の言葉を浴びている間に、言葉をうまく信頼できなくなっている。
言葉は常に警戒していなければならないものになった。軽々しく言葉を信頼してはならない。ネットの情報を鵜呑みにしてしまってはいけない。それはただの言葉に過ぎないし、フェイクかも知れない。
毒見をするように言葉を口に含んで、完全には飲み込まないようにする習慣が当たり前になる。あるいは誰かから揚げ足を取られないように、過剰に予防線を張って言葉を使う。言葉が万人に開かれたものではなくて、徐々に息苦しいものになっていく。
・使う言葉の総量を減らしたい。
それ故に、一日に読む言葉、受け取る言葉、考える言葉、アウトプットする言葉を段階的に減らしたいと思った。
日常の中で過剰な量の言葉に触れているけれども、心が満ち足りることはない。多すぎる言葉に翻弄されて、反応しなくてもいいことに反応して、意味のないことについて考えて、怒らなくてもいいことで気分を害している。
新聞を読んで、ニュースを見て、ネットで情報に触れて、常に何かしらの考えを抱いている。もし情報を摂取するのをやめてしまったら、社会から取り残されるのではないか。流行を見落としてしまったり、重要な情報が手に入らなくなるのではないのか、という不安に陥る。
でも、情報源はもっと減らしてしまって構わないのではないのか。
完全に見るのをやめるわけにはいかないとしても、朝晩に見るニュースを一日一回にしたり、時事問題を追うのは一週間に一回程度に留めたり、号外になるような速報以外の情報は後追いしてもいいと思ったり、適切に情報に対する感度を下げていったほうが幸せになれるのかもしれない。
見聞きする情報を減らした分だけ、これまでに得た情報を整理するために時間を使ったほうがいい。情報は毎日入ってくるけれども、過去に自分がどのような情報に触れて、何を考えていたのかについては簡単に忘れてしまう。
おびただしい情報に毎日晒され続けているせいで、体系立てて社会問題を考える余裕がなくなっている。数年前の『日本の論点』シリーズを読むと、こんな社会問題があったよね、と懐かしい気持ちになる一方で、何も進展していない問題があったり、まったく話題にも上らなくなってしまった話題があることに気づく。
それと同時に、情報を使い捨てている生活習慣が浮き彫りになって、言葉も情報もそんなに丁寧に扱っているわけではないことを思い知らされる。
一時ばかり好奇心を満たして、明日には忘れ去っている。そういう風に情報に触れているせいで、自分の血肉にしないままで情報を右から左に流している。情報は上手に消化しない限り、自分のものにはならない。うまく吸収できずに消化不良になっているから、満たされ無さを感じるのは当然だ。
そう思い至ったので、実験的に海外ニュースのAsia欄だけをチェックするようにした。本当に重要な事件だけ知りたいのなら、これでも問題は無い。日本だけではなくて東南アジア全体の情勢もチェックできる。
ポイントは、最新情報を取りこぼすかも知れないという恐れを受け入れる。時事問題に疎くなってもいい。生きるか死ぬかに直結する情報以外は全部エンターテイメントだ、ぐらいの気持ちでいる。
・選択肢の多さに惑わされる。
情報が多くなるたびに、選択肢を吟味するコストが馬鹿にならなくなる。
選択肢が少ないときには迷わずに済む一方で、逆に選択肢が多すぎると、「本当に自分が選んだ選択肢が正しいのか?もっと他に最適な方法があるのではないのか?」と迷う。そうやって、もしかしたらあるのかもしれないし、無いのかもしれない最善な選択肢を探して、時間と労力を無駄遣いする。
どこかに問題をイージーな方法で解決してくれる魔法の杖や銀の弾丸があるような気がして、そういうものを探し続ける。もしかしたらあるのかもしれないし、見つからないのかもしれない。でも、いまここにはない魔法の杖を探すことを言い訳にして、覚悟を決めて腰を据えられなくなる。
よそ見をせずに馬鹿の一つ覚えみたいな視野狭窄さで突き進むには、選択肢の誘惑が多すぎる。
手持ちの道具と不完全な資源、間に合わせの方法、そのときにできる最善で、準備ができていないままどうにかする!……という気概が無くなっている。あるいは反対に、選択を放棄してあらかじめ用意されたテンプレートに頼り切りになる。
無数の選択肢がある状態で、惑わされずに馬鹿の一つ覚えを貫くのは難しいのだけれども、それができないと様々な可能性に目移りをしてなにもできなくなる。
・あまり作品を大事にできていない。
ブラウザやアプリを開いて何かしらクリックをすれば、何時間も時間を潰せるぐらいのコンテンツがあふれ出してくる。映像や音楽、小説、漫画などのあらゆる分野がウェブ媒体に移行して、物理的な制約に縛られなくなった。
そのことで大量生産、大量消費、大量廃棄の波に飲み込まれて、作品ひとつひとつを大切にできなくなっている。
これまでは作品を載せる媒体の枠が限られていた。雑誌にはページ数があって、映像には尺があった。それらの制限に収まるように供給がある程度制限されていて、複製されるべき情報も取捨選択されていた。
ウェブに媒体が移行したことで、パッケージングされた商品を売る前に、まず注意力(アテンション)を集めて読者を獲得しなければならなくなった。回転の速いウェブメディアでユーザーの関心を引き留めておくためには、質よりも量や更新速度を重視する必要がある。情報が埋もれないようにして、フォロワーを増やして、バズらせて、SNSのタイムラインやWebメディアを占拠できるかという比重がこれまでになく高くなった。
クオリティを評価される以前に、継続的にアテンションを獲得するための技量が問われるようになったが、これは泥仕合の様相を呈している。
コンパクトにまとめることよりも、ユーザーが飽きないような分量を提供する。作る側も量を増やして、球数を揃えることだけを第一義にしているような印象を受ける。
自分が消化できる量を超えた量のコンテンツを浴びて、消化不良のままになる。ひとつの作品を大事にできない。使い捨て、読み捨て感覚で次から次へと人気作を飛び移るような価値観があまりうれしくない。
・余計なものに対する執着を減らす。
・情報に対する執着
最新の情報にキャッチアップしなくてもいい。1、2週間ぐらい遅れても、一ヶ月後にようやく流行に気がつくような愚鈍さを手に入れたい。新しい情報をすぐさま手に入れられても、そんなに幸福感が増すわけでは無い。災害情報などの生死に関わるもの以外は、なるべく最新情報にこだわらなくてもいいし、時事問題も週に一回まとめて読むぐらいがちょうどいいように思う。
・数字に対する執着
未だに数字に対する執着を手放せない。「AMDの新型GPUアーキテクチャは、これまでよりもワットパフォーマンスが1.5倍ほど改善し、性能が上がる予定です!」とか、「前世代モデルに比べてお値段据え置きで4コアが6コアに増えます! 性能も30パーセントアップです!」と言われると物欲が刺激される。
目的地に着くのが一時間か、それとも50分になるのかという違いにこだわっている。
だけどPCには「したいこと」が「快適にできる、ストレスがたまるが不可能では無い、できない」の三つしかないので、細々としたスペックに拘泥するのは意味の無いようなことだと思った。
PCパーツ屋の従業員に「いまの時点でコスパのいいミドルスペックのマシンを一つ頼む。詳しいことは知らないけど、おまえの選定眼を信じる」と言って、金を叩き付けるのがいいのかも知れない。
・ジャンクな好奇心。
でもやっぱりスペック表があったら読み込んで性能を比較したくなる。昔からゲーム攻略本に書かれているステータスの羅列を見るのが好きだった。見開きに細かい文字で数字がびっしりと印刷されていて、 武器の威力や命中率が書かれている。その一つ一つを知るたびに、世界の成り立ちに手を突っ込んでいるような感覚になる。
その延長線上にPCスペック表を読み込む嗜癖がある。
ただ何事にも限度がある。Ryzenの内蔵GPUには計算ユニットがいくら積まれていると言うような情報を知る度に、好奇心を無駄に空回りさせているような感覚になった。
ジャンクフードを食べるような好奇心に振り回されて、数字に耽溺している。楽しいのはわかっているが、知らなくてもいい。そういう情報に溢れていて、本当に知るべきことから遠ざかっていく。
・言葉のイメージに引きずられて物欲を刺激される。
スマートフォンのカタログを見ているときに、「18:9型画面」「オクタコア」「これまでよりも強度の高いゴリラガラス」「大容量メモリ」「4K高精度画面」「最新バージョンのAndroid搭載!」といった言葉に振り回されていることに気がついた。
必要な機能かどうかもわからないのに、ブランドイメージや新しい技術、改善点に物欲を刺激される。具体性のあるものが欲しいのではなくて、頭の中でふくれあがった新製品に対する幻想を欲望している。
実際に展示されている商品を触って物欲が刺激されるのではなくて、ディスプレイ越しにカタログスペックだけを見ている。それは実際の物欲ではなくて、言葉の響きに対する欲望ではないのか?と思い悩んでいた。
今の自分が必要としているものではなくて、頭の中でふくれあがった記号的なものが欲しい。でも観念として形成された欲望には際限が無くて、空腹や睡眠欲とは違って肉体のブレーキがかからない。
マーケティングの教科書にはよく「needsではなくwantsを刺激せよ」と記載されている。実際の必要性よりも、欲しいという気持ちを刺激せよという現代資本主義の教義だ。逆に言うと私たちは自分が本当に必要としているものと、欲しいと思うから欲しいものの区別ができない。それを見分けられるようにならないと、簡単に頭の中で作り上げられた欲求に引きずられてしまう。
普通にテレビやインターネットに接するだけで大量の広告に接して、SNSを通じて他者の欲望に感染する。新しい服を買ったとか、美味しい食事をしたとか、旅行に行ったとか、車を新調したとか、ソシャゲーで☆五つのレアキャラを手に入れた……等々。それは「友達が持っているおもちゃが欲しい」という子供と欲望の形が変わっていない。
この間、中古でKindle Paperwhiteの初代を買った。レビューサイトにはバックライトの発光にムラがある、解像度が低い、古い世代のE-inkディスプレイを使っているのでコントラストが低い、ページめくりの速度が新しいバージョンに比べると遅い……というようなことが書いてあったのだが、とくに不便もなく使えている。
身体が水分や塩分を欲するような生命に関わる欲望、自然な物欲と、自分ではない誰かのマーケティング戦略によって欲しいと思わされているだけの気持ち。それらは区別できないままに自分の中でごちゃごちゃに混じり合っている。
その中で、「水を飲んで乾きを満たしたい」が、「乾きが満たされる快楽を得たいから水を飲む」に変わってしまうのだが、本人はそのことに気がつけない。
・正義エンジンを刺激せずにインターネットを使う。
僕たちには正義エンジンが搭載されていて、悪や不正を目の前にすると自動的に義憤がわき上がってくる。タイムラインを開いて、時事問題に正義感を刺激されて、良識的なコメントする。
正義エンジンには他者の正義感を刺激するという延焼機能が備わっている。リツイートやシェアを駆使して、他者にも同じように正義感と義憤を抱いて欲しいと願うようになる。
正義エンジンは人間にとって自然なシステムだが、ソーシャルメディアとの相性は最悪だ。ニュース記事や政治の話題は正義エンジンにとって格好の燃料になるが、四六時中、簡単に他者の怒りに感染してしまう環境にいるのは好ましくない。
ここでは正義エンジンが過剰反応しないように、情報をフィルタリングする方法についてを記述していく。
・呪いを解いて、目を覚ますために。Wake Up Girls!感想文
・行くぞ!ガンバッテ!Wake! Up! Girlsッ!!!!
Wake Up Girls!は才能のある人間が恵まれた環境で約束された勝利をつかみ取る話ではない。傷ついた人間、ぎりぎりで夢に踏みとどまろうとする人間、恵まれていない人間、くすぶった人間が生き残りをかけて戦うサバイバルアイドルものだ。
ヤマカンが自分の魂を癒やすために作った私小説アニメで、作り手側が余計な予防線を張らずに自分自身の一番脆い部分をさらけ出しているように見えた。不完全で、フラジャイルで、アンバランスな作品だけど、精神的に刺さるものがある。
・暗闇男と私。~気候変動VSメスガキわからせてやるおじさん編~
私の心の中には暗闇男(くらやみおとこ)という公序良俗を無視して、おのれの欲望だけを羅針盤にして生きるナイスガイな反社会的パーソナリティが存在している。これはインターネットの闇から生み出された人格であり、決して外側には出せない種類のパーソナリティなのだが、私はこいつのことが嫌いではない。
・アスペルガー症候群的人格拡散スタイル。
自己の流動性は、自閉症スペクトラムの人に多く見られる現象です。本書に登場する自伝作家の全員、それに小説の作家の多くも、流動的で可塑性のある自己という感覚をもっています。
私が教えているASの学生のひとりは、約10種類のアイデンティティをランダムに使い分け、そのことを“世間に向ける鎧の交換”と呼んでいます。(p231)
『作家たちの秘密: 自閉症スペクトラムが創作に与えた影響』
まず念頭に置いて欲しいことがひとつだけある。私は明確な自我観念が乏しい。これはアスペルガー症候群に特徴的なもので、自分が何者なのかという感覚が流動的になるというものだ。とくにメインパーソナリティとなる自我観念が無いので、エントリごとに人格を変えられるブログ形式で文章を書くのはここちよい。書く文章に合わせて自我をその都度でっち上げるつもりでやると、楽に文章を書ける。ただし人間としての一貫性は保てなくなるので、文章ごとに人格やパーソナリティが揺れ動く場合もあるし、場合によっては一つの文章中でも一人称やキャラクターが変わる。
そういう事情があるので、アイデンティティ不詳問題については大目に見て欲しい。
自我を固定するよりも、アイデンティティ拡散を極めた方が好ましいのでは無いのかと思っている。ただそれを追求するとなると、人間不詳に拍車がかかり、いまよりももっと得体の知れない生き物になる。それもやむをえない。